伽藍洞

 その影をみつけた時、イェンツォはなりふり構わず駆けていた。

「待って!!」

 レイディアントガーデンに突如現れた黒い影。一瞬見間違えかと思ったが、滑るようにその影が移動するとイェンツォは考えるより先にその影を追ってた。
 まさかそんなことが。でも見間違えるはずない。
 閉じかけた扉に体当たりするようにして部屋に飛び込むと、薄暗い部屋の中に確かに見覚えのある黒い影が、こちらに背を向けて立っていた。背格好を見れば顔を見せなくたってわかる。荒い呼吸の間に絞り出すようにして呼びかけた。

「マールーシャ……」

 祈るような気持ちで名前を呼ぶと、ゆっくりと影のような黒い身体がこちらに向き直る。フードに手をかけた時、緊張は最高潮に達した。鮮やかな紅色の花弁がどこからともなく舞い、柔らかそうな桃色の髪の毛がふわりと現れる。こちらをじっと見据える青い瞳。何一つあのころと変わらない。間違いなく彼だった。

 穏やかにこちらを見つめるマールーシャの姿に次々と感情があふれてきてイェンツォは胸が詰まり、思わず駆け寄った。手を伸ばしてコートを掴む。忌まわしい記憶の一部だった革のコートも触れたとたん彼との記憶がよみがえり甘い感情が胸に沸き起こった。彼の分厚い胸に飛び込む。たくましい背中に腕を回す。

「会いたかった」

 どれだけこの世界で彼を切望したことか。心を得、肉体を得、仲間を得て、これ以上望むものなどないはずだった。望める立場なんかじゃないことも承知している。それでも彼を忘れることができない自分を認めざるを得なかった。
 心ある今なら言える。彼を愛していたと。そして今なお愛していると。
 忌まわしいと狭間の記憶を呪う自分がいる一方で、彼との甘い記憶を振り切れずもう一度会いたいと願ってしまう自分が情けなかった。

(でも、僕に会いに来てくれた)

 先に消滅した彼がどうなったかは今日までわからなかった。彼もどこかで人間に戻ったのだろうか? 僕のことを、思い出してくれているだろうか? いや、そもそも覚えているのだろうか?
 彼を思う一方で不安も大きかったが、こうして目の前に現れたことで今までの不安は霧散した。これからは、一緒に――……

 いつまでも静寂が続いてはた、と我に返る。名前を呼び、力強く抱きしめ返されると当然のように思っていた。無反応なそれは、まるで丸太でも抱いているかのようだ。顔を上げると、マールーシャはじっとこちらを見つめ返していた。穏やかだが、無感情で、暗い穴のような眼球と目が合う。
 思わず抱きしめていた腕を緩めた。後ずさりすらしたくなる。彼は、何を見ているのだ?

「マ……」
「生き写しのようだ」

 ぼんやりと放たれたマールーシャの発言にイェンツォは言葉を失った。弾かれるように身体を離し数歩後ずさる。心臓が早鐘を打つように鳴り出した。

『生き写しのようだ』
僕が? 誰の?

 言うまでもない。ゼクシオンだ。イェンツォのノーバディ。忌まわしき記憶。
 意識が一瞬遠のきかけた後、すごいスピードで戻ってきて耳の中でガンガンと音がした。背中に冷たく汗が伝う。

「生き写し? ご冗談を」
 イェンツォはようやく声を絞り出した。膝が震えそうだ。声は震えていたかもしれない。
「たしかに僕はもう”彼”ではないけれど」
 震える足を踏み出し、再びマールーシャに近付く。
「ゼクシオンは僕の一部でしょう?」

 マールーシャは依然としてこちらをじっと見つめているが、その目は”イェンツォ”を見ていない。なのにどこか懐かしそうで、慈しむようなその眼差しに、イェンツォは激しい焦燥と嫉妬に駆られた。
 何が不満なのです、僕ではいけないのですか、なんですかその目は。

「一部、か」
 マールーシャはふ、と笑みを漏らした。
「普段は卑下しておきながら、都合のいいように過去の自分を笠に着るのだな」

 低い声は嘲笑うようにイエンツォを詰った。簡単に胸の内を見透かされてぐうの音も出ない。昔からそうだ、この男は、簡単に本心を見破ることができた。

「狡賢さは変わらないな」
 そう言って目を細める様子は、かつて彼が自分を見る目と違いないことに気付く。懐かしい気持ちに焦燥感は薄れ、切なさが浮かび上がった。

「……何をしにここに現れたのです。もう僕がノーバディでないことはご存知でしょうに」

イェンツォは皮肉めいた言い方をした。『それでもお前に会いたかった』と言ってくれるのではないかと期待していた。

「そうだな」
 マールーシャは小首をかしげて思案する様子を見せるが、また意地悪く八重歯をのぞかせる。

「――欲しい言葉をくれてやってもいいが、果たしてそれで満足か?」

 こちらの心情を読み切った的確な彼の言葉は鋭く突き刺さり、イェンツォは畏怖の余り身動きができなくなった。呼吸をするのも緊張するほど空気が張り詰める。すべてわかっている。
 委縮しているイェンツォを余所に、マールーシャは上から下まで眺め渡してつぶやいた。

「黒のほうが似合う」
「もう”彼”ではないと言ったでしょう」
 癪に障る物言いにイェンツォは語気を強める。
「マールーシャ、もう僕はあの時とは違う。貴方だって同じはずだ」
 無駄だとわかっていても言わずにはいられなかった。

「何故まだそちらにいるのです」

 地下と地上。従属と謀反。狭間の身だった時から、同じ機関員でありながらいつも対極にいた。消滅して新たに生まれ落ちたはずなのに、またしても運命は二人を分かつ。

「来世でも同じ地は踏めそうにないな」
 同じことを考えていたのか、やはり心を読まれているのか、マールーシャは薄く笑うとイェンツォから視線をはずし、フードに手をかけた。

(行ってしまう)
 そう思ったと同時に身体は感覚を取り戻し、イェンツォは駆け寄るとフードを纏わんとする腕を食い止めるようにしがみ付いて叫ぶ。

「嫌だ、マールーシャ、行かないで!!」
 こんなやり取りがしたかったんじゃない。ただ、会いたかったと、会えてうれしかったと、伝えたかった。これで最後になんてしたくなかった。
「行かないでください……」

 暫し無言の時が流れる。
 マールーシャはイェンツォに向きなおると手を伸ばした。顔にかかる前髪を指先でそっと払うと、両の目を見つめて静かに告げる。

「さよならだ、イェンツォ。貴方には心がある」

 耳に届く言葉に、ひどく彼を遠くに感じた。
 伽藍堂がらんどうの瞳には、何も映っていない。イェンツォはマールーシャの瞳を見て、心無き者の目がこんなにも光を映さないのだと、初めて知った。
 それなのに――嗚呼、以前と変わらず彼はなんと美しいのだろうか。イェンツォは目が離せない。

 もう一度その目が僕を見つめてくれたなら
 もう一度その腕が僕を抱いてくれたなら
 もう一度その声で僕の名を呼んでくれたなら

 もう肌に触れてすらくれない彼の指先を見て、願わずにはいられなかった。
 ノーバディだった頃、もしも心があったらなどと戯れの話をした。キングダムハーツの完成を急がねばならぬと笑っていた彼。ありもしない未来を願ってしまったあの夜。
 あの時なら望めば簡単にかなえられたことこそが、今や手の届かない幻想と化してしまっていた。

 僕は心を手に入れた。僕だけが心を手に入れてしまった。
 もう彼を繋ぎとめることができない。

 堪えきれない涙が溢れてくるのを見てマールーシャは困ったように微笑んだ。
「そうやって涙を流しても美しいのだな」
「やめてください!」
 イェンツォは大声で叫んで顔を覆う。
「比べないで……」

 もう過去の自分を重ねられるのに耐えられなかった。
 くらべないで。僕を見て。僕を愛して。イェンツォを。

 

 返事はなかった。恐る恐る顔を上げるとそこには誰もいない。
 伽藍堂の部屋があるだけだった。

 

20181224

(編集後記:11が金眼表記じゃないのは、D23トレーラーの11が青眼だったせいだと言い張ります)