きっと単純なはずの答え

 日もとっぷり暮れた夜の研究室で、モニターに映し出された計算結果を前にゼクシオンは目頭を揉んだ。またしてもエラー。必要なデータが揃わず、なかなか終わりの見えない作業に時間ばかりが過ぎていく。泊まり込みだけは避けたいから根詰めてるものの、実験結果はエラーばかり叩きだすのでほとほと手を焼いていた。
 再度値を入力し直して再計算を開始する。パソコンが計算をしている間にわきに置いたマグカップに手を伸ばしたものの、中身はとっくに空だ。ゼクシオンは息をついて椅子の背にもたれた。

 大学は一足早く春休みに入った学生が多いため、構内にいるのはサークル活動に明け暮れるグループばかり。日中に窓の外から和気藹々とした声が聞こえてくると、実験結果も相まって陰鬱な気分になったものだ。自分だって好きで籠っているわけではない。膨大なデータの処理するのに、個人の所有するノートパソコンよりも大学のコンピューターのほうが適しているから、仕方なく来ているだけ。賑やかな集団を窓の外に眺めながら研究室に缶詰めになっていたけれど、夜にもなるとさすがに構内に人の気配は感じられなかった。

 モニターに流れる計算式をぼんやり目で追いながらゼクシオンは考える。
 ……こんなに手古摺らなければ、せっかく受けた夕食の誘いを断らずに済んだのに。

 春休みをどう過ごしているかと相手からメッセージが来たので、実験に明け暮れて変わらず大学に来ていると返答したら、自分も大学にいるからせっかくなら、と声を掛けてもらったのだ。誘いを受けたときは荒んだ気持ちに一筋の光が差したような気持ちだったけれど、進捗及ばず苦渋の思いで断ざるを得ず、更に気分は荒んだ。考えるだけ虚しいというのに、なかなか自分から誘うこともできずにいる中でのせっかくのチャンスを棒に振ったのは痛手だった。……相手は、最近どうにも気になって仕方ない人物だったから。

 通う大学で教鞭を振るう教師の一人であるマールーシャとは、一教員と学生との関係から一歩踏み込んだ関係である。といっても本の貸し借りをするのに待ち合わせて学外で会ったりする程度だけれど……自分がいま、友愛や憧憬を超えて目をかけている相手であるのには間違いない。
 この感情に名前がつくことからなんとなく目を逸らしてきたけれど、二人で過ごす時間を重ねていくうち、自分の中で見てみぬふりはできない程度には割合を占めている感情と向き合わざるを得なくなっている。ゼクシオンはため息をついて目を閉じた。実験が終わったら、次は自分から相手に声を掛けてみようか……。

 

 コンコン、と扉を叩く音がしてゼクシオンは目を開いた。ノックの音?
 顔を扉の方へ向けるものの、座ったままドアを見つめる。誰だ? 研究室の学生だったらノックなどせず入室してくる。教授に用事がある人でもいるのだろうか。けれど、こんな時間に? ただでさえ学内に人がいない時期に加え、夜にもなってこんなところにやってくる人物などゼクシオンには見当もつかない。あるいは聞き間違えかも……。
 考えを巡らせていると、もう一度ノックの音がした。間違いなく、誰かが何らかの用事で訪れているのだ。仕方なくゼクシオンは立ち上がりドアへ向かう。
 訝しげにドアを開けたゼクシオンの視界に、突如花のように鮮やかな色彩が飛び込んできた。

「……マールーシャ……?!」

 予想外の人物の登場にゼクシオンは上ずった声を上げる。

「こんばんは、ゼクシオン」

 眼前に立つマールーシャは微笑んで夜の挨拶をした。スレンダーなコートを纏い、紺色の格子柄のマフラーに乗った髪の毛が色鮮やかだ。モノトーンの画面ばかり見ていた視界には、桃色の頭髪も、微笑んだ表情も、眩しいくらいだった。まさに彼のことを考えていた手前、タイムリーすぎて幻覚でも見ているのかと思うほどだ。すっかり目の覚めた面持ちで、ゼクシオンは相手をまじまじと見つめた。

「どうしてここに……」
「近くを通ったから様子を見に寄ったんだ。こんな遅くまでかかりきりだなんて、ずいぶん大変な実験とやらなんだな」

 教員たる彼が大学にいること自体はおかしいことではないが、専門の違う学部棟付近に来る必要など滅多なことではないはずだった。
 忙しさを理由に誘いを断ったから、気にされているのかもしれない、と考える。

「すみません、せっかく夕食に誘ってくださったのに」
「急だったし実験とあらば仕方ないだろう。またの機会にでも…………それと、これを」

 そう言うとマールーシャは手に持っていた鞄から平たい何かを取り出し掲げて見せた。

「なんですか?」
「差し入れ。遅くまでお疲れ様」

 見れば、シックな包装の板チョコだった。甘すぎないタイプで、ゼクシオンが好むものだ。

「わ……ありがとうございます。あ、もしかしてバレンタインだから?」

 チョコレートをみてぴんときてゼクシオンはカレンダーを振り返る。今日は2月14日だ。忙殺されていたこともあり、つい例年通り、こうしたイベントとは無縁なつもりでいた。友人とも顔を合せなかったから、今年はこれが唯一貰ったチョコレートだ。

「僕、何も持ち合わせがなくて」
「気にしなくていい、私が渡したかっただけだから」
「ありがとうございます……たぶん今年はこれが最初で最後です」

 マールーシャは黙ったまま微笑んだ。目を細めてこちらを見つめる優しげな表情が、疲れた精神に沁みわたる。ぎゅう、と胸が苦しくなるような、彼といるとたまに感じるあの感情が胸中に湧き起こった。早く終わらせて帰りたい、と切に思った。せめて、メッセージでのやりとりくらいできる時間を作りたい。

「……ちなみにそれは、ただの差し入れ」
「?」
「本命は別にある、ということだ」

 え、と身を固くするゼクシオンに、マールーシャがにっ、といたずらっぽく笑う。

「落ち着いたころ日を改めて渡したい。実験が無事に終わるのを待っているよ、ゼクシオン」

 そう言ってマールーシャはさりげなくゼクシオンの手を取ってチョコレートを握らせると、じゃあ、と片手をあげて颯爽と部屋を後にした。
 手にしたチョコレートを握り、ゼクシオンは呆然とその背中を見送るほかない。

 本命? 本命って言った? つまり…………どういうこと?

 いつもこうだ、とゼクシオンは頭を抱えたくなる。冷静でありたいと思っているのに、彼の何気ない言動がいつも自分の感情を乱していく。

 雑然とした部屋を振り返り、依然として処理中のモニターをゼクシオンはぼんやりと眺めた。
 コンピューターがデータの計算処理を終えるのと、自分の脳が彼の言葉を理解するのと、果たしてどちらが速いのだろう。

 

タイトル配布元『icca』様

20250214