珈琲の時間
研究が思うように進まず、試行錯誤を重ね、徹夜を伴う作業は今日で三日目だ。目の下にくっきりと隈を縁取らせながらゼクシオンはやり場のない焦燥感にかられ机に向かっていた。ともに作業をしているヴィクセンは先に限界を訴え、自室に戻り仮眠をとっている。機関員も人手不足だ。こんなところで時間を食っている場合ではない。焦る気持ちを無理に押さえつけながらゼクシオンは時計を見上げた。
眠気覚ましのコーヒーをダスクに依頼してからもうかなり時間がたつ。普段はもっと早くに手配してくれるのだが、今日に限っていったい何をしているのだろうか。うまくいかないことは重なるものだ。
やがてこんこん、とノックの音が静かな部屋に響いた。ようやくか、少しばかり小休止としよう。どうぞと短く返事をしながらゼクシオンは両腕をぐぐっと上に伸ばして凝り固まった背筋を伸ばす。ところが入ってきた人物と目が合うと、予想外の相手に思わず手に持っていたペンを取り落とした。銀のトレーにコーヒーカップを乗せて入ってきたのはマールーシャだった。
「ご機嫌よう策士殿。ご注文の品だ」
「……貴方に頼んだ覚えはないのですが」
「全然寝てないそうじゃないか。様子を見にきた」
「余計なお世話です」
落としたペンを拾いながらぴしゃりと策士は言い放つ。基本的に容赦ない上に今は疲れがピークに達して余計なことに構っている余裕はない。こちらに余裕がない今、一番見たくない顔だった。
マールーシャは一向にかまわない様子でトレーに乗せた湯気の立つコーヒーをテーブルにことりと置いた。ゼクシオンは目だけでじろりとそれを睨みつける。
「貴方が淹れたんですか」
「僭越ながら」
「特別なレシピでお願いしているんです。悪いんですが、今はいつもの以外飲みたくない」
「豆は1.5倍、極深煎りで、抽出時間は3分以上、だろう」
マールーシャはこともなげに諳んじると、訝しげに見上げるゼクシオンに向かってぱちりと片目を瞑った。
「お前の好みはちゃんと理解しているつもりだ」
そういうと、テーブルに置いたコーヒーをもう一度ゼクシオンの眼前に置きなおす。たちのぼる深煎りの香ばしい香りに、ゼクシオンは脱力してため息をついた。本当にこの男にはかなわない。
「どうも。いただきます」
「しかし濃すぎやしないか。あまり苦くすると肌に悪い」
「作業にはこれが効くんです」
「あまりに香りが強いからサイクスが飛んできたぞ。何を焦がしたんだと迫られた」
「目に浮かびますね。鬼のような形相で」
「そう」
くすっとどちらともなく笑う。張り詰めていた部屋の空気は、濃厚なコーヒーの香りと他愛ない話題で少しずつほどけていった。ダスク相手ではこうはいかない。冷たい態度をとってしまったが、マールーシャが来てくれてだいぶいい気分転換になっていた。礼を言うつもりなど微塵もないが。
「進捗状況はどうだ」
「正直、あまり芳しくないですね」
ゼクシオンは再び眉間に皺を寄せるとふう、と息を吹きかけカップに口をつけた。濃い香りが口中に広がると、次に訪れる痺れるような苦味に脳が覚醒していく。求めていた感覚にほう、と息をつくと、不意にこちらを眺めていたマールーシャと目があった。
「満足か」
「まあ、コーヒーに罪はないですから」
「お望みなら私が毎日コーヒーを淹れようか」
「結構ですよ、そんな暇があるのなら少しでも機関に貢献してください」
「つれないな」
マールーシャは肩をすくめると手近な書類を興味なさげに捲りぽそりとひとりごちる。
「一体いつになったら構っていただけるのやら」
「終わって気が向いたら遊んであげますよ。さ、仕事に戻るので出てってくださいな。カップは後で返却しておきますので」
ひらひらと手を振りながらゼクシオンはすでに書類を睨みつけていた。マールーシャはしばらく面白くなさそうに思案していたが、机を回り込むとゼクシオンの真後ろに立つ。
「変な気を起こさないでくださいよ」
鋭く声をかけると、ぴたりと背後の気配が止まった。油断も隙もあったものじゃない。
「まだ何もしていないだろう」
「こう見えて僕だって我慢しているんですから」
ぼそりと呟く。だいたいこういうのは聞こえているものだ。ほう? と含みをもった声が聞こえると、今度は遠慮なく伸びてきた腕にゼクシオンはすっかり捉えられてしまった。指が輪郭をなぞるのに身を任せるとそのままくいと上を向かせられ、逆さまに熱を帯びた眼差しと目が合う。
「我慢は体に良くない」
そういう声はどこか楽しそうだ。手が前髪を払い、視界が開けて彼一色になった。
「それにコーヒー代をまだ頂いていないぞ、ゼクシオン殿」
欲しそうな声。二人の時だけ見せるその表情は少しだけ優越感に浸らせてくれる。すこしからかってやりたくなって、ゼクシオンはコーヒーカップに手を伸ばした。
「飲んでみますか」
これ、とカップを軽く掲げていたずらっぽく笑うとマールーシャはそっとカップを持つ手に手を重ねる。
「そうだな、だが」
マールーシャは言い含みながらその手を制した。飲みかけのコーヒーをこぼさないようにそのまま机の上に戻すと、今度はゼクシオンの顔をまじまじと見つめてから八重歯をのぞかせた。
「一口でいい」
ああ、せっかく我慢していたのに。この後は邪念との戦いになりそうだ。ため息をつく間もなく唇を割って口内をなでる生暖かい感触に、ゼクシオンは目を閉じてしばらくの間されるがまま甘えた。輪郭を撫でる皮の手袋が、首を伝い、コートの胸元に入り込もうとするのに気づくとぺしん、と軽くはたく。顔を離すと、想像に反して真顔のマールーシャと目が合った。
「どうでした」
「…………苦い」
渋い顔に変わり、コーヒーは好かん、と呟くマールーシャの顔を見てゼクシオンは思わず頬を緩めた。
「貴方、今夜は空けておいてくださいよ」
「遊んでくれる気になったのか」
「そろそろベッドで寝ないと疲れが取れなさそうですし。寒い日は湯たんぽが必要でしょう?」
そう言いながらゼクシオンは少し冷めてしまったコーヒーに口をつけ、挑発的に微笑する。
20190522