酔っ払いの戯言
「ついたぞ。歩けるか」
助手席でがくりと頭を垂れているゼクシオンは反応を見せない。寝てしまったのだろうか。
シートベルトを外して先に車から降りると、マールーシャは助手席のほうに回り込んでドアを開けた。部屋まで担いでいくことは不可能ではなさそうだが、いくら深夜とはいえできれば人目につくことは避けたい。幸いにもドアを開けた音で意識を取り戻したゼクシオンは、気だるげにシートベルトを外すとマールーシャの手を借りてよろよろと立ち上がった。車内で吐かなくてよかった、とこっそりマールーシャは安堵する。
ゼクシオンがこんなになるまで酔っ払ったところを見たのは今回が初めてだった。呂律は回らないし、足元もおぼつかない。
そもそも酒の席に参加することが珍しい。確か今日は、研究室で世話になっている教授の還暦祝いだったと記憶している。よほど盛り上がったのだろうか、楽しかったのならばいいのだが。部屋に向かうエレベーターの中で、マールーシャはなお壁に寄りかかってぐったりしているゼクシオンを眺めていた。
おそらく多少の理性でも残っていれば自力で自宅まで帰っただろうが、すっかりぐずついた頭で恋人であるマールーシャの携帯電話に連絡をよこしてきたのですっとんで迎えにいった次第である。
「こんなになるまでどうしたんだ今日は」
「うー……知らない」
「……そうか」
別に迷惑だなんて思っていないし、自分を頼って連絡をくれたことはむしろ嬉しく思うのだが、見たことのないゼクシオンの様子にマールーシャは少々困惑していた。いつもの聡明な顔つきからは打って変わってぼうっとした表情。目は据わっておりぼんやりと虚空を見つめている。
「水を飲んだらいい」
「……いらない」
何とか無事部屋にたどり着いたことにまた安堵する。酔っ払いは適当に座らせて、グラスに冷たい水を注いだ。見ると、首の据わらない幼子のようにぐらぐらとしている。より気分が悪くならないだろうか。マールーシャはゼクシオンの目線に合わせて膝をつくと、水を満たしたグラスをその手に持たせる。
「飲みなさい。飲んだら寝ることだ。話は明日聞くからな」
「んー……ふふ……ふふふふ」
「お前……」
呆れて思わずため息が出た。状況もわからず含み笑うゼクシオンは可愛らしくもあるが、いかんせん本人の意識の外だ。もうさっさと寝かせてしまったほうがいいかもしれない。そばでグラスをささえていないと手から抜け落ちてしまいそうだった。
渋るゼクシオンに無理矢理水を一杯だけ飲ませると、ゆっくり立たせて半ば引きずるように寝室に連れていく。暴れないでいてくれるだけありがたい。
寝室に入るとベッドを認識してふらふらと歩み寄り、座り込んだかと思えばそのままあおむけに倒れ込んだ。酔っ払いはまだ一人でたのしそうにくつくつと笑っている。意外にも具合が悪いわけでもなさそうだし、楽しそうに酔っぱらっているゼクシオンを観察するのは少し愉快だった。しかし誰彼構わずこの姿を見せられたらたまったものではない。たまたま連絡をくれた相手が自分だったから良かったものの、連絡先さえ認識できないほど酔っぱらっていたとしたらと思うと末恐ろしい。明日は少し話をしなくてはならないな、と思いながらマールーシャはクローゼットを開けて、急な泊りの時のためにおいてあるゼクシオンの部屋着を取り出す。楽な服に着替えさせた方がいいだろうと思ってのことだ。
ベッドに戻るとすでに寝そうになっているゼクシオンの肩をそっと抱きかかえ、まだ肩から斜めがけにされたままの鞄を外した。眉間に皺を寄せて迷惑そうな顔をするが、構わずに鞄を回収して一旦脇に置くと、今度はシャツを脱がせようとボタンに指をかけ、慣れた手つきでするするとはずしていく。
ところが次の瞬間、ゼクシオンは突然目を向いてガバリと飛び起きると、「やめてください!!」と叫んでその手をひっぱたいた。急にはっきりとした強い語気が飛んできてマールーシャは呆気にとられた。
「は……」
「なんのつもりですかぁ、こんなところにつれこんで!」
「私の部屋だが」
「やだ、知らない!やめてくださいっ」
弁明も空しく、ゼクシオンは四肢を不自由にばたつかせると近くにあった布団を掴んで縋るように顔を埋めた。なかなかはっきりとした拒絶に正直傷ついたが、相手は酔っ払いである。このまま放っておいた方がいいだろうか。こうなってはいよいよマールーシャも白旗だ。
もう一度だけ交信を試みようと名前を呼びながら肩を優しく揺する。ゼクシオンはびくんと反応を見せるが、拒絶するように頭を振って布団をより強く抱き寄せた。意識の混濁が思ったよりもひどいようで、これ以上はもう手に負えなさそうだ。
もうすべてを明日に任せてマールーシャが身を引こうとした矢先、布団の隙間からくぐもった声が聞こえた。
「……ールーシャ」
「え?」
勢いよく振り返る。酔っ払いは以前布団を抱えたまま、身体を縮こめて小さく震えている。
「……マールーシャじゃなきゃ、いやなんです……」
涙声になりかけているか細いその声を、マールーシャは聞き逃さなかった。身体も脳も静止した。え?? 何言ってるのこの子?? 放たれた言葉がじんわりとマールーシャの中に浸透していく。
自分で呼び出しておきながら、知らない男にさらわれたつもりでいるのだろうか。目の前の人物を認識できないほど酔っ払ってしまったとは。これは明日は説教が必要だ。
耳にその言葉が蘇る。
『マールーシャじゃなきゃ、いやなんです』
……馬鹿か私は。
マールーシャは頭を抱えた。口元が緩むのが堪えられない。酔っ払いの戯言に喜んでどうする!
はぁ……と深くため息をついてからマールーシャはベッドに乗り上げ、布団にしがみついてぐずついているゼクシオンの肩を優しく揺さぶる。相変わらずイヤイヤしているが、今度は負けじと根気強く耳元で名前を呼びながら「私だ」と囁いた。布団を握る手が少し緩んだのがわかる。布団の端からちらりと見上げる目は、酒気なのか少し潤んでいて妙な色気を孕んでいた。すぐそばで呼びかけているのが恋人だとようやく認識したゼクシオンは、布団を離すと今度はマールーシャの首に腕を回して縋りついた。アルコールの巡った体が熱い。
「マールーシャだ……」
「最初から私だ」
「へへ……」
締まりのない顔になってへらっと笑うゼクシオン。安心したようで身体から力が抜けきっている。首にぶら下がるには成人男性の体重は少々重い。首に巻き付いた腕を外すと、今度はやや強引に服を脱がせる。多少は状況が理解できたのか、ゼクシオンも大人しくされるがままとなった。
柔らかい生地のスウェットを頭から被り、髪の毛を乱しながらやっとのことで袖を通すと、ゼクシオンはしげしげとマールーシャを見上げて首を傾げた。
「なんでマールーシャがいるんです?」
「……私の部屋だからな」
「そうかあ……」
やはり頭は回っていないようで、ふくふくと笑いながらゼクシオンはマールーシャの胸にぽすんと倒れ込んだ。はいはい、と背中を撫でて布団の中に促すと、「一緒に寝てくれるんですよね?」と服を掴まれる。まだあれこれやり途中の作業がほんの一瞬脳裏をかすめたが、マールーシャは頷いてゼクシオンの手を取った。返事を聞いて嬉しそうに枕に頭を沈めると、とろんとした表情でゼクシオンはマールーシャを見つめて言った。
「幸せ」
と。
「素面の時に聞きたいものだな」
皮肉をこめて言うものの、マールーシャもゼクシオン同様締まりのない顔になっていて、その瞳は優しい。
抱き寄せられてふふ、と笑うと、今度こそゼクシオンは夢の中へと落ちていった。熱くなった手を絡めたまま。
身動きが取れないままマールーシャは家の様子を頭に思い起こす。
玄関の鍵は閉めたが、廊下の電気はつけっぱなしだ。それに、出掛ける前に途中にしていた仕事も机の上でそのままになっている。服だって外に出た格好のままだ。
それでも。
安心しきった顔のゼクシオンが、縋るように胸の中で寝息を立てはじめたのを見てマールーシャはそれらのことをいったんすべて忘れることにした。なんとか腕を伸ばして照明のリモコンを取り、部屋の明かりを落とす。
***
翌朝。
目が覚めたゼクシオンはまず鈍く響く頭痛に呻き声を上げた。目を開けてここが自室でないことに気付く。はて、昨日は泊まったんだっけ、とぼんやりとした頭で記憶をたどりはじめた。
此処は、彼の部屋。そして、息のかかるほど近くに彼がいる。まだ寝ているようで、静まり返った寝室には穏やかな寝息だけが聞こえる。しかしその姿はシャツにスラックスと、ベッドに入るには似つかわしくない。だんだん状況がわかってくると、鈍い頭痛と見覚えのない彼の部屋、彼の不自然な格好が意味するものが頭の中で徐々につながっていく。嫌な予感に鼓動が早まり、脳をフル回転させて昨夜の出来事を一つずつ思い返そうと努めた。
昨日は確か飲み会で、注がれるまま飲んでいくうちにどんどん気分が良くなってしまって。それがどうして此処にいるのだ。
ばくばくと心臓が鳴り出す。自力できたのだろうか?それならまだいい。いやよくない、深夜に連絡もなく酔っ払いが来たのだとしたら全然よくない。連絡?「酔っぱらったのでこれから伺います」とでも?なおのことよくない。最悪だ。
そもそも一人で歩けたのかも怪しい。タクシーを呼ぼうとした友人を振り切って駅まで歩いた記憶はある。駅前でベンチに座ったら立てなくなってしまったのもぼんやり覚えている。もしかしてその後彼に連絡をしたのだろうか?これから行きますと酔っ払いが連絡を寄越したのを聞いて、はいお待ちしていますと彼がいうだろうか?まさか、深夜に呼び出して迎えに来させてしまった?
ぐるぐると考えを巡らせてぞっとする。真相解明のために、ひとまず携帯電話を確認した方がよさそうだ。
そろそろと腕の中から抜け出すと、ベッドから出ようとゼクシオンは身を起こす。
が、次の瞬間音もなく伸びてきた手に腕を掴まれて、声も上がらぬうちにふたたび布団の中に引きずり込まれた。顔を上げると、自分を覗き込む青い目が二つ。
「おはよう」
「……オハヨウゴザイマス」
マールーシャがにやにやとこちらを見ている。ああ、これは完全にやらかしたんだな、とゼクシオンは腹を括る。何から聞いていいのかわからずしろどもどろになりながらも口を切る。
「あの……僕……」
「覚えていないのか?」
自分の乱れた髪の毛を優しい手つきで繕ってくれながら質問するマールーシャに力なく頷いた。
「多大なご迷惑をお掛けしたことだけはわかります……」
「迷惑だなんてとんでもない、が」
マールーシャは手を振るが、少しまじめな顔つきになって続けた。
「あまり野暮なことは言いたくないが、飲みすぎには気を付けてくれ」
心配になる、といいながらマールーシャはそっとゼクシオンを抱いた。はいそりゃあもう、とゼクシオンは猛省する。お咎めもそれ以上はなく、マールーシャもその様子を見て頷くと身を起こして手を伸ばしカーテンと窓を開けた。東向きの寝室に朝日と冷たく澄んだ空気が流れ込む。
「水を飲んでからシャワーを浴びたらいい。具合は?」
「頭痛が少し」
「薬があったか見てこよう」
「すみません」
「……覚えていないのは残念だ」
「え?」
しわくちゃになったシャツを脱ぎながらマールーシャはちらっとこちらを見やる。
「可愛かったのに」
起き掛けからマールーシャがニヤニヤとしているのが気になる。
「……僕、何か変なこと言いました?」
あまり聞きたくないがゼクシオンは恐る恐る尋ねる。
「教えない」
そうふざけるマールーシャはやたらと機嫌がいい。何か言ったのは間違いなさそうだ。
ゼクシオンは反省を胸に、二度と飲みすぎないことを固く誓うのだった。
20190923