一秒

「ですからここは……こう」

 ゼクシオンは机に置いた分厚い本の、細かい文字が無数に並ぶ中の一節を指さして、トントンと叩いた。

「魔力の強さは己の精神力の強さに大きく左右されます。ノーバディである我々は魔法を使うにあたってまず補完すべき点が此処です」
「ほー」
「皆それぞれ属性値に近い魔法は難なく使えるようですが、弱点を補うこともまた必須です。特に貴方は魔法に関しては提出レポートが極端に少ないので、より励んでいただかなくてはなりません」
「はー、なるほど」

 生返事に顔を上げると、ため息をついてゼクシオンはペンを置いた。

「ではまずはここ、全部暗記してくださいね」
「なっ……本気か?」

 ぼんやりと相槌を打ちながら気だるげだったマールーシャはゼクシオンの提案に思わず頬杖を外した。
 機関員一同は参謀殿発案の魔法攻撃強化月間につき、各々が勉強と訓練に励んでいた。魔法に秀でているゼクシオンに教えを乞う者も少なくなく、マールーシャも例に漏れない。予約殺到の人気講師をやっとの思いで確保して、今日は資料室で座学の勉強だ。
 実力はあるもののどうにも物理攻撃に特化しているマールーシャは、魔法の成績はまだまだ伸びしろを残している。魔法も同じくらい使えるようになれば大した戦力になる、と周りからは期待されているものの、当の本人は宿題を嫌がる子供ばりに訓練に消極的だった。

「武器を扱うときに部屋に閉じこもって本ばかり読む者があるか? せめて実践だろう」
「同じことですよ。まずは魔法の原理を理解することです。仕組みがわかれば実際に使うときにイメージをより強固なものにできますね」

 ゼクシオンは静かに淡々と言うと、丁寧に本に付箋を貼っていく。

「主属性の発動原理はここ、精神論についてはここ。貴方はそれだけでなくこちらの応用魔法にも目を通してくださいね。上も期待していますから」
「まさか小テストだなんて言い出さないだろうな」
「皆さんの取り組みによっては提案してみるのもいいかもしれません」

 墓穴だったかとため息をつくマールーシャにゼクシオンはくすりと笑みを漏らした。和やかな雰囲気が部屋に満ちていた。
 得意な魔術の話をするゼクシオンは、心がないながらにどこか生き生きしているように見えた。教え方も的確に要点を捉えた無駄のない話で理解しやすく、普段口数の少ない彼が丁寧に寄り添ってくれるのがどこか心地よい。そんな彼が他の者にも誰彼構わず同じように接しているのかと思うと、心もないのに嫉妬心に駆られる思いだった。座学なんて本当は微塵も興味ない。恋人を、独り占めしたかった口実に過ぎない。

 まだ本のページを捲りながら、やれここが重要だのあそこはぜひ覚えてほしいだのしゃべり続けるゼクシオンの声を聞き流しながら、マールーシャはその容姿をじっと見つめていた。本に夢中な伏し目にかかる睫毛は長く伸び、中性的な印象を際立たせている。しゃべり続ける唇はあまり血色良いとはいえないが、白い肌に浮き上がるように形よくその色が映えていた。

 不意に、触れたい、と強い衝動に駆られる。
 マールーシャの反応が薄くなったことに気付いたゼクシオンが顔を上げる。怪訝そうな目と目が合った瞬間、マールーシャは大きく身を乗り出してゼクシオンにキスをしていた。考えるよりも早く身体が動いていた。そうしたかったから、した。本当に軽く、触れるだけ。
 わずか一秒にも満たない接触の後、何事もなかったかのようにすとんと席に戻ると、ゼクシオンは予想外の出来事にまだぽかんとしていた。

「失礼。何の話だったかな」

 マールーシャはそういうと再び本に目を落とす。置かれたままのゼクシオンの指先の指し示す先に指を這わせる。

「……僕の話聞いてました?」

 ため息をつきながらあきれ顔で指を払いのけるゼクシオンは、先ほどまでの和やかな雰囲気から一転して冷ややかだ。マールーシャは肩をすくめて弁明する。

「つい見とれてしまって」
「やる気がないなら結構ですよ」

 怒ったように冷たく言い放つと、ゼクシオンはバシンと本を閉じて、机の上に乱暴に放った。そのままぐるりと背を向けるとかつかつとドアに向かい、振り返りもせず出て行ってしまった。叩きつけるようにドアを閉めて。
 そんなに怒ることだっただろうか、とマールーシャはぼんやりと扉を見つめた。これでも一応付き合っているのに。まあ折角時間を割いて教えてくれていたのに不真面目な態度を露わにしてしまったことが癪に触ったのであろう、と納得した。真面目な男だから。そこが彼の魅力である。
 あとで謝りに部屋へ行こうと決めるとマールーシャは重たい本を拾い上げた。こんな分厚い本、とてもじゃないが一人で読む気は起きるまい。

 

 

 廊下中に響き渡るような轟音でドアを叩きつけたあと、ゼクシオンは歩き出そうとしたもののよろけて壁に手をついた。手がわずかに震えている。顔からは火が出そうに熱い。今頃になって心臓がばくばくと飛び出さんばかりの勢いで胸を打つのをなんとか抑えようと、ゼクシオンは壁に寄りかかりながら胸に手を当てた。
 あんなキス一つで、どうしてこんなことになってしまうのだ。間近でみたマールーシャの顔が瞼の裏に甦る。澄んだ青がまっすぐこちらをみつめていたのを思い出すと、動悸は治るどころかより激しさを増す。

「馬鹿……」

 誰に対してかわからない悪態を吐いてから策士はなんとか姿勢を立て直し、もやもやする気持ちを置き去るべく足早にその場を後にした。

 

20190923