ささくれ

「香水、変えました?」

 ゼクシオンがそう問いかけると、マールーシャは驚いた様子で振り返った。
 彼はいつも甘い香りを纏っていた。贔屓の香水があるのは知っている。決して重たくなく、花のように爽やかに後を引く上品な香りだった。すれ違った長身の男性がからこんな芳香がしたら女性は間違いなく振り向くだろう。男だって振り向きかねない。殊更、体温と混ざったその香りはゼクシオンも嫌いではなかった。なのでその日仕事部屋に入ったとき、その空間に漂っている香りがいつもよりも柔らかく、少し重たくそこに留まっていることにすぐ気付いたのだ。

 いつもと違う香りにゼクシオンは首をかしげる。

「いや、いつもの香りもしますね……他にも何かつけてる、とか?」
「すごいな、わかるのか」

 部屋の中まで招き入れてからマールーシャはどこか嬉しそうに答えると、デスクの引き出しを開けて中のものを取り出した。鼻は利く方だ。ゼクシオンがのぞき込むと、マールーシャの手の中には銀色のアルミチューブがあった。ハンドクリーム、と書かれている。

「へえ……こんなの使ってるんですか」
「最近は乾燥するからな。紙を扱うことも多いし」
「ふうん」
「嫌いだったか」
「いえ、ただ珍しい香りがすると思って」
「つけた直後はそれなりに香るが、すぐに落ち着くだろう」

 そう言うマールーシャの手は、見れば手入れの甲斐あってか男性にしては白くてなめらかだ。しなやかな指は長くてささくれなどもない。心なしか爪まで桜色をしてつやつやと光って見える。細かなところまできちんと気を配っているところはさすがだな、と思いながら、はて自分はどうだったかとゼクシオンはちらりと己の手を盗み見た。普段手入れなんて爪切りくらいしかしないが、確かにここ最近は乾燥が少し気になるかもしれない。手を洗った後などは少しかさつくような油分不足を感じる気もする。でも、だからどうするだなんて考えたこともなかった。
 自分も何かつけてみようか、なんて、一人では絶対思い至らないようなことを考える。これだから、恋は困る。好いた相手の行動はやけに際立って見えて、真似したくなってしまうのだ。

 そんなゼクシオンの思惑は顔に出ていたのだろうか、マールーシャはチューブをそのままゼクシオンに向ける。

「使っていいぞ」
「え……いいんですか」
「もちろん」

 礼を言いながらおずおずと受け取ってパッケージを眺める。馴染みのない海外ブランドのロゴがプリントされていた。慎重にキャップを回して開けると濃縮された芳香が流れ出てくる。純粋にいい香りだと思った。
 ハンドクリームなど使ったことがないので勝手がわからず、ゼクシオンは戸惑いながらチューブを押し出すと、ほんの少しだけ乳白色のクリームを指先に取ってそっと手に擦りこんだ。ぺたぺたとして違和感がある。自分の手から甘い香りがするのは何とも妙な気分だ。……やっぱり洗い流したいかもしれない。

 不慣れな様子を見かねて、マールーシャはやれやれと歩み寄るとゼクシオンの手からチューブを取った。そのままゼクシオンの手も取る。突然の体温にひえっ、と声を上げかけるも、マールーシャは気にせずに手の甲を上に向けさせるとクリームを押し出してたっぷりとそこにとった。

「え、ちょっと、多いですよこんな」
「少なすぎても摩擦になるからな」
 慌てて手を振りほどこうとするが、マールーシャはぎゅっと握った手を離さない。力強く、でも、優しい手の温もりに心臓が跳ねる。

「使い方を教えてやろう」
 そういうとマールーシャはクリームを乗せたところに自分の手を重ねた。止める間もなく大きな手が包み込むようにしてそのままゼクシオンの手にクリームを伸ばしていく。
「手に取ったらまずは温めることだ。手の甲でも、手の平でもいい。緩んできたら、全体に馴染ませる」
「指先まで怠るなよ。特に爪の際は乾燥でささくれやすい……ほら、少し剥けてる」
「たっぷりクリームを塗っていればマッサージをしながら塗るのもいい。こことか、押すといいだろう」
「指も、こうして一本ずつ」

「ま、マールーシャ!」

 怒鳴るような声を出すとマールーシャがやっと顔を上げた。少し驚いた表情をしているのは、オーバーヒート寸前のゼクシオンが真っ赤になって震えながら睨みつけているからだろう。おやおやと半ば呆れるマールーシャにゼクシオンは噛みつくように怒鳴りつける。

「なん、なんですか貴方はっ……距離感というものがあるでしょうっ」
「ああ……これは失礼」

 マールーシャはくすくすと笑いながら簡単に手を解放した。かばうようにゼクシオンがべたつく手をさすると甘い香りが立ち上る。体温の余韻とその香りにくらくらした。

「誰彼構わずこういうことするの、どうかと思いますよ」

 胸のどきどきを悟られまいとゼクシオンはとげとげしく言うが、マールーシャはまだ笑っている。意味ありげな含み笑いは何事かとまた睨みを利かせようとするが、マールーシャは穏やかに告げた。

「無論、誰彼構わずなどしないさ」
 そういうとマールーシャは一歩またゼクシオンに歩み寄る。
「相手は選んでいる」

 ……なぜ、そんなにまっすぐ自分を見て言うのだろうか。彼の眼差しもだけれど、自分の心臓が、聞こえてしまいそうなほど激しく胸打っていることにもゼクシオンは動揺する。

「そ……それもそうですね。下手に女性に触れようものなら、簡単にセクハラで訴えられるこのご時世――」
「ゼクシオン」

 遮るように名前を呼ばれ、はっと顔を向ければ二つの青い眼が変わらずまっすぐに自分を覗き込んでいた。いつしか含み笑いも消え、真剣すぎるほどの眼差しに、言葉を失ってゼクシオンはマールーシャを見つめ返した。

「ちゃんとケアすることだ。せっかく綺麗な手をしているのに、勿体ない」

 そういうとマールーシャはまた自然にゼクシオンの手を取った。すり、と指が触れ合い、ゼクシオンの指先のささくれたところをそっと撫でる。
 再び顔中に血が上ってしまいそうになり、有耶無耶に返事をするとゼクシオンはほとんど逃げるように手を振りほどいて部屋を飛び出していた。
 騒がしい胸の鼓動を落ち着かせようと手を胸に当てると、ふわりと漂う甘い香り。まだ手に残る体温を思い起すと、耳まで火照るようだ。

「あっつい……」

 すっかり参ってしまったゼクシオンは、はたはたと顔を手で仰ぎながらも、頭ではすでにああいう類いの用品はいったいどこで買えるのだろう、と真面目に考えているのであった。
 彼と同じ香りが、冷たく乾いた空気の中でほのかに香っていた。

 

20191126