しるし

 朝、目覚ましのアラームが鳴るよりも前にゼクシオンは目を覚ました。朝の空気はひんやりとしているが、布団の中は二人分の体温で汗ばむくらい温かい。布団の端を捲ると、冷たい空気が寝起きの火照った身体を撫でるのが気持ちよかった。隣りでまだ寝ている恋人を起こさないように静かに伸びをしてからそろそろとベッドを降りる。部屋から出る間際そっと振り返ると、盛り上がった布団が呼吸に合わせてゆっくりと上下しているのが見えた。何を思うでもなくしばらく見つめてから、そのまま音を立てないように静かにゼクシオンは部屋を出た。
 はだしのままひたひたと廊下を歩く。洗面所で冷たい水で顔を洗うと、ぼんやりと夢見心地だった頭はいくらかすっきりとする。濡れた顔のままゼクシオンは洗面台の鏡の中の自分と向き合った。ほたほたと水滴が滴り落ちるその先をふと見れば、鎖骨の下に赤い跡があることに気付く。その刻印がつけられたときのことが脳裏に甦ると、身体は瞬時に昨夜の熱を思い出した。息を詰めるようにしてどきどきしながら、指でなぞるようにその赤に触れる。

(夢じゃ、ない……)

 付き合って間もない恋人と過ごした初めての夜は、やはり現実の出来事であったのだ。
 彼の自宅は何度か訪れていたが、一夜明かしたのは昨夜が初めてだった。起きた時に隣で眠る恋人の姿を見ても尚、本当は何もかも自分の妄想か何かだったんじゃないかとどこか信じられない気持ちがあった。しかし、こうして目に見える形で残された刻印は昨夜の出来事を克明に思い起こさせ、それが現実であったことをありありと証明していた。

『跡、つけていいか』

 耳の奥に昨夜の声が蘇ると、思わず身震いしそうになる。
 暗くした部屋で、すっかり服を脱いで愛し合ったあと、彼は、マールーシャはそういった。まだぜぇはぁと上下しているゼクシオンの胸元を見下ろして指でなぞりながら、唇を舐める仕草にまたどきりとしてしまった自分を覚えている。

『……目立たないところなら』

 大歓迎です、と答えるわけにもいかないので努めて慎ましやかに答えたが、本当は所有の証のようなそれに少し憧れていた。答えた直後にはもうマールーシャはゼクシオンの薄い胸板に吸い付いていて、少し歯の当たる感触と、ぢゅっと吸われたときの瞬間的な熱に、また声が漏れそうになるのを必死で飲み込んだ。赤く色づいたそこを、愛おしそうに彼が何度も唇で愛撫するのが気恥ずかしくて、でもどこか嬉しくて、忘れられない夜になったなと深く感じ入りながら揺れる桃色のくせ毛に指を絡ませたのだった。
 思い出すうちにいつのまにか燃えんばかりに赤面している自分に、らしくないとゼクシオンはぐしゃりと髪の毛を掻き上げる。蛇口をひねりもう一度冷たい水に顔をさらすが、身体の芯から発せられる熱は簡単には冷めてくれそうにない。

 すっかり暑くなってしまったので、部屋には戻らずキッチンへ向かった。何度も訪れた広いキッチンの勝手はあらかたわかっている。冷たい水を注いだグラスを頬に押し当てるも、身体は昨夜の熱を思い出すばかりだ。手が、唇が、体温が、触れた温度がそのまま残っているかのようだ。喉を潤しながら、ぼんやりと尚余韻に浸る。
 どんな顔をして部屋に戻ったらいいだろう。このまま逃げ出してしまいたい気持ちと、早くベッドに戻ってちゃんと彼がそこにいるかをまた確認したい気持ちと、あれこれ感情が入り乱れてゼクシオンは軽く混乱していた。
 恋人だなんて名ばかりで、何も変わらないと思っていた。でも、違った。肌で感じる人の体温がこんなに熱いなんて知らなかった。

 

 一人でうっとりと昨夜の出来事を反芻している折、不意に廊下の向こうからドアの開く音がした。びくりと身体が跳ね、瞬時に冷静になる。まずかったかな、初めての朝だったのに、一人で部屋を出てきてしまって。気持ちは慌てるもののなすすべもなくシンクに向かったまま立っていると、程なくして背後に人の気配。振り返ることができないでいるうちに、腕が伸びてきて腰に巻き付いた。首元に顔を埋められる。柔らかい桃色の髪の毛が視界の端で揺れた。はっとした。身体が熱いのが知られてしまうんじゃないだろうか……。

「おはよう」
「……おはようございます」

 あれ? こんなにいい声だっただろうか。もともといい声なのは知っているけど、声を聴いただけで体温が一度上がってしまったかのような感覚すらする。……重症かもしれない。

「寂しいじゃないか、初めて一緒に起きる朝なのに」
「あっすみません……」
「いや、冗談だ」

 身を固くしたのを察してかマールーシャは優しく言った。少し安堵して、寄りかかるように背中を預ける。マールーシャはまだ上半身は裸のままで、自分の服越しに触れる体温は自分よりも高かった。

「身体、辛くないか」

 大丈夫、の意を込めて頷いてみせる。そう、と短く言うと、マールーシャは再び顔を首元に埋めた。うなじに熱くて柔い感触が何度も押し当てられる。朝から勘弁してくれ、こっちはもうとっくにオーバーヒートしているというのに。

「ちゃんと残ってるな」

 肩越しに乗り出すようにしてマールーシャが首元を覗き込んだ。指先が軽くTシャツの襟ぐりを引っ張ると、そこにある赤を見て満足そうだ。長い指が優しく跡を撫でるので、むずがゆいような何とも言えない気分になり、身体に巻き付いた腕に寄り添うようにして手を添えた。今はこれで、精一杯だ。

「私にもつけてくれないか」
「えっ」

 思わぬ提案にゼクシオンは顔を上げた。絡みついていた腕がほどかれると、今度は優しく肩を捕まえてくるりと向い合せにさせられた。正面から向き合うかたちに少し戸惑うも、ようやく目の合ったマールーシャは、ちゃんと昨夜を一緒に過ごしたマールーシャで、改めて現実を確認してゼクシオンはまた少し安堵に似た気持ちを抱いた。

「同じ場所に頼みたい」
「……やり方、わからないです……」

 困惑しつつも白状すると、マールーシャはくすくすと笑いながら教えてくれた。笑われてしまったことはいささか気に障ったが、今に見ていろ、とばかりに眼前の分厚い胸板を睨んで鎖骨の下に狙いを定める。少しだけ舐めて唇を湿すと、言われた通りにその白い肌に唇を押し当てた。前歯を当てるようにして、少し強めに吸い付く。簡単に説明されても思ったより難しく、ちゅっと高い音がして離れてしまったあとをみてもほんのわずかに吸った跡が残っているだけで、自分の胸に刻印されたような真っ赤なしるしはつけられなかった。む……と不満げなゼクシオンを見てくっくっと笑いを堪えているマールーシャが気に入らなくて、今度は思いっきり歯を立てて噛みついてやる。

「痛い痛い痛い」

 笑いながら背中を叩かれて、ぎりぎりと食い込ませた歯を抜いた。さっきよりはわかりやすく跡が残っていた。なんだか子供じみていて思っていたしるしとは程遠かったが、ひとまずはこれで納得することにした。

「まあ、これもまたこれで」

 マールーシャも大胆な歯型に楽しそうに笑った。そんなふうに笑うんだな、と、また少し冷静になってゼクシオンはその様子を見ていた。

「ああゼクシオン」

 ひとしきり笑ったあと、マールーシャは腕を伸ばしてまたゼクシオンを抱き寄せる。ぎゅう、と強く抱きしめられると、マールーシャの鼓動が伝わってきた。とくとくと脈打つそれは思ったよりも速くて、つられるようにゼクシオンもまた少し高揚した。

「いい朝だな」

 また少し体温の上昇を感じて、マールーシャの腕の中でゼクシオンは身体を火照らせながら黙って頷いた。

 初めて二人で迎える朝の出来事。

 

20200213