ネクタイ

 ドライヤーの音で目を覚ました。眠い目を擦りながらゼクシオンはもぞりと布団から起き上がる。すでに隣に人影はなく、会議で朝が早いと言っていたのは今日だっただろうか、と彼のスケジュールをぼんやりと思いだそうとした。時計を見れば、いつも起きる時間よりまだだいぶ早い。体温のこもったやわらかな布団は恋しいが、寝直すのは出掛ける彼を見送ってからにしよう、と布団を剥いで床に降り立ち、スリッパを引っ掛けて音のする洗面所に向かった。
 扉を軽く叩けど返事はない。ドライヤーの音にかき消されて相手の耳には届いていなさそうだ。仕方なくそのまま扉を開け、そこにいるであろう恋人の名前を呼ぼうとゼクシオンは口を開けた──が、その後ろ姿を見たとたん、眠気と共に喉元まで出かかった声は一瞬にして失われてしまった。驚いた、珍しいことに、その後ろ姿はワイシャツにグレーのスラックスと随分とフォーマルな出で立ちであったのだ。
 鏡越しにゼクシオンに気付いたマールーシャは、ドライヤーを止めると振り向いておはよう、と微笑んだ。

「すまない、うるさかったか」
「いえ……」
「まだ寝ていていいぞ、行く前に声をかけるから」
「もう起きますよ。目が覚めました」

 普段はタイもせず比較的カジュアルな格好で仕事に出ているマールーシャだったので、スーツ姿はほとんどお目にかかったことがなかった。そういえば昨夜、自分が風呂から出てきたときにハンガーにつるされたワイシャツが目に入った。なにか特別な用事でもあるのか聞いてみたところ、会議なんだ、とややうんざりしたような顔でマールーシャは答えた。朝が早いから先に出ると思う、などとやり取りをしていたことをようやく思い出してきた。
 マールーシャは鏡に向かいながら広がる髪を抑えて一つにまとめていたが、ゼクシオンがぼうっと眺めているのに気付くと、ああ、すまない、と洗面台を譲ってくれた。どいてほしかったわけではなかったのだが、無意識のうちに見とれていたことを告白するわけにもいかず、慌てて礼を述べてゼクシオンは鏡の前に立って顔を洗った。

 着替えを済ませて居間に出ると、マールーシャは立ったまま机の上に広げた新聞紙を眺めながらネクタイを結んでいた。鏡も見ずに器用にこなしていて感心する。コーヒーメーカーのボタンを押しながら、出来上がるまでゼクシオンは見慣れないマールーシャの姿にちらちらと視線を送る。きちんとアイロンをあてたシャツに、パリッとのびたスラックス。足が長い。きっちりと第一ボタンまで留められたワイシャツは少しきつそうにも見える。赤いネクタイは濃いグレーのスーツにも、桃色の頭髪にも映えた。似合っている。人を選ぶ色なのに、上手く着こなしていた。
 マグカップを持って席に着くと、新聞を読んでいるマールーシャの背後にカーテンレールにかけられたジャケットが吊ってあるのが目に入った。なんと大きいことか。肩幅の広いそれは、自分が着ようものならすっぽりと包まれてしまうだろう。包まれ……

「着てもいいぞ」

 新聞に目を落としたままのマールーシャに声をかけられて、またぽーっとしていたゼクシオンはギクリと身を固めた。どこかほかにも目がついているんだろうか。

「着ませんて」

 決まりが悪くなって、隠れるように大きなサイズのマグカップに口をつける。ばさりと新聞紙を閉じて、ようやくマールーシャがこちらをみた。ビシッと決まったその姿はいつもとはまた違う大人の色気を感じさせた。見慣れない雰囲気に、ふーん、悪くないんじゃないか、などと胸の内に思うのだった。ひとくち、とねだられるままカップを奪われる。すぐ淹れますよ、と言うが、もう行く時間だといってマールーシャはそのままゼクシオンのカップに口をつけた。あわただしい朝だ。カップを受け取りながら、帰ってきたらゆっくりと労いたいものだとゼクシオンは考えた。
 マールーシャが歯を磨いている間にジャケットをハンガーから外す。滅多に着ないこともあってか皺ひとつなく、見事な仕立てだ。高いんだろうな、などと考えていると持ち主がやってきたので、ん、とジャケットを掲げて広げてみせた。

「おお、なんだかいいな」
「はい?」
「新婚のようで」
「また馬鹿なことを」

 ゼクシオンの掲げるジャケットに嬉しそうに袖を通すマールーシャに、ため息まじりにつぶやいた。憎まれ口をたたいてもマールーシャの目は優しい。いたたまれなくなってゼクシオンは視線をそらせた。自分はこの目に弱い。

「……あなたも」
「ん?」
「悪くないですよ、それ」
「ほう」
「似合ってるんじゃないですか」

 目を逸らせたままゼクシオンはぼそぼそと言った。マールーシャは軽くゼクシオンを抱きよせて髪の毛に顔を埋めた。

「ネクタイを結んで貰えばよかった」
「正面からなんて結べませんよ」
「練習しておいてくれ」
「滅多に着ないくせに」
「たまだからいいんだろう」

 まあ確かに、とゼクシオンは声に出さず胸の内で賛同した。スーツ姿のマールーシャは見慣れないせいもあってか、いつもと違う雰囲気はこちらまで新鮮な気持ちにさせてくれた。女性がスーツ姿にいつも感じない男性らしさを感じると騒ぐのにも少し共感が持てる気がする。だって、朝からこんなにも鼓動が速い。
 またぼんやりと眼前のネクタイを撫でるようにもてあそんでいると、ぽんと頭に手を置かれた。思わず顔を上げると、優しい眼差しとぶつかる。

「帰ったら、な」

 へっ、と素っ頓狂な声がでる。そのままマールーシャはぐしゃりとゼクシオンの前髪をやや乱暴に撫でると、そのまま体を離して鞄を手に取った。

「早くに帰る予定だから」

 短くそういうとマールーシャは玄関に向かう。乱れた髪の毛を手で払いながらゼクシオンは慌てて見送りについていった。じゃあ、また夜に、と送り出して鍵をかけると、壁にもたれて頭を抱える。そんなに物欲しそうな顔をしていたのだろうか?なんておもいながらも、『帰ったら』という彼の言葉の続きを、またぼんやりと想像してしまうのだった。

 

20200213