朝帰り
「……何時です」
できるだけ不愉快さが伝わるように声に出して問う。起床の原因となったその手は、何度払えど懲りずに戻ってきてはまたゼクシオンの髪を梳くように指を通した。
「四時前」
返ってきた答えは短く、しかしゼクシオンの寝起きの声とは違ってしっかりとした落ち着きがあった。その余裕さがまたゼクシオンの不快を煽る。
「もう五分したら起こしてください」
もう何度目かわからないが再び髪の毛に絡む手を邪険に払いのけると、布団を掴んでぐるりと寝返った。狭いベッドの一人用の布団はすっかりゼクシオンのものになる。寒いじゃないか、という声は無視した。こちらはまだ昨夜のまま一糸纏わぬ姿だというのに、すっかり起きて服まで着ている相手に同情の余地はない。いつの間に着こんだのだか、全く気付かなかった。そもそも相手は寝たのだろうか? 自分が意識を手放したのが正確にいつ頃かは定かではないが、彼の部屋を訪れたのがそもそも深夜を回った頃合いだったように思う。
夢中であったという表現はノーバディに相応しいのか疑問だ。心などないのだから、集中していた、と言うのが適切だろうか。あるいは、必死だった? 相手のペースに飲まれないように、自我を手放さないように。けれど結局最後まで意識を保っていられないのはいつも自分だ。昂る神経が絶頂を迎えた後、眠りに落ちるその間際の記憶はいつもない。
そういう理由もあって、二人で過ごすときは大抵彼のほうがゼクシオンの部屋に赴くのが常となっていた。精魂尽き果てた後はとてもじゃないが服を着て自室まで帰る気にはなれない。気絶同然で寝入った後、目が覚めると隣りはいつだってもぬけの殻だ。ほかの機関員たちが起き出す頃に部屋を行き来するわけにもいかないので当然と言えば当然なのだが、それにしても目覚めた自分の部屋に彼の痕跡が何も残っていないのはどこか面白くなかった。まるで、昨夜の出来事なんて最初から何もなかったかのようで。
そう、だから、今回は自分が彼の部屋に来てみたのだ。自室からならば彼も逃げ場もあるまい、なんて、安易な提案だった。今日は僕がそちらに、といえば彼の方も特に意見がある様子もなくすんなりと提案を受け入れてくれた。寝顔の一つでも見てやろうと思っていた。ところが現実は辛いもので、敵地に来たせいか相手はいつもより容赦ないし、意識していたせいか眠りも浅く、さらには僅かな安息の間にちょっかいを出されて最悪の目覚めだった。おまけに相手はすっかり先に目覚めていた様子である。何をしに来たんだかしれやしない。
あれやこれや考えているうちに、幾分か頭は冴えて意識もはっきりしてきた。相手は狭い布団の中に無理やり身体を押し込んで自分を後ろから抱え込んでいた。肩越しに振り返ると、桃色の髪の毛が今日も元気にあちこちに跳ねているのが見えた。マールーシャもこちらが起きているのに気付いているのだろう、抱き寄せる腕には力が増し、布団の下で肌を撫でる感触がこそばゆい。
「時間だが」
「わかってますって」
「目が覚めることをしようか」
「結構です」
時間を見てくれるよう頼んだのは自分なのに、我ながら手酷いものだ。温もる布団の誘惑と離す気のなさそうな太い腕から逃れるのはかなりの試練だったが、呻くようにしながらゼクシオンは布団を跳ねのけて身を起こした。着るものは、と探すやいなや、畳まれた黒い服を差し出される。黙って受け取ってもそもそと袖を通すのを、マールーシャは静かに眺めていた。穏やかな視線に感じられる余裕が気に入らなくて眉間に皺を寄せて相手を見返した。
「気が散るんですが」
「寝起きがそんなに悪いなんて知らなかったな」
「いつも起きる頃にはいませんものね」
つい、拗ねるような口調になってしまった。余計なことを言ったなと思った時には時すでに遅く、
「ははぁ、それで今日はわざわざこちらに来るなどと言い出したのか」
わざとらしく口に出していうとマールーシャはにやにやと口角を吊り上げながら膝の上に頬杖をついてゼクシオンを見上げる。
「起きた時に、そばにいて欲しかったと」
「誰がそんなこと言いました」
ほとんど怒鳴るようにしてゼクシオンはコートの裾を翻してベッドから降りた。眠いし、身体は痛いし、彼の物言いは不愉快だし、来てみてもいいことなんて一つもなかった。さっさと私室に帰って寝直そう。
振り返らずにドアまで進んでノブを捻り、数センチ扉を引いたと思ったその時、後ろから伸びてきた腕が静かにドアに体重をかけて再びガチャリと扉は音を立てて閉じてしまった。何事かとゼクシオンが振り向くと、いつの間にかマールーシャが真後ろまで来ていて、腕で囲うようにしてゼクシオンを扉と自身の身体の間に閉じ込めていた。暗い部屋の中で、覆い被さるようにこちらを見下ろしているマールーシャとの距離は近く、伸びたくせ毛がゼクシオンの顔に垂れかかった。
「お前にばかり負担をかけてすまなかったな」
マールーシャの口調は優しくて、ゼクシオンは狼狽した。そんな言葉が欲しかったのではない。思わず反論してしまいそうになるが、伸びてきた腕は簡単にゼクシオンを胸の中に捉えてしまった。宥めるようにまた髪を梳かれると、つい言葉をなくしてしまう。あまりに現金すぎる自分に心底呆れた。喉元まで出かかった反発の言葉は深いため息となってそのまま零れ落ち、脱力してされるがままにゼクシオンはマールーシャの腕の中に納まる。欲しかった温もりがすぐそこにあった。
「そんなこと言うのなら、もう少し手加減してくれたらよかったんです」
「自分から部屋に来ておいて」
「こんなにしんどいのはもうごめんです」
「次からはまた私が伺おうか」
「それがいいですね」
ふ、と少しだけ頬を緩ませてから、ゼクシオンは押し返すようにして身体を離した。戻らねばならない。
マールーシャも最後まで髪の毛を指先で弄んでいたが、やがて手を離すと扉を開けてゼクシオンを通した。
「見送るのは慣れないな」
扉をくぐりぬけた直後、不意にマールーシャが呟いた。聞き逃してしまいそうにさりげない囁きに、ゼクシオンは思わず振り返る。なにか、と問うも、その唇は答えることを拒むように静かにゼクシオンの額に押し付けられた。目を瞬く間に音もなく離れると、もういつも通りのマールーシャは、よく休めよ、と言って静かに扉を閉めた。
見慣れぬマールーシャの表情にゼクシオンはしばらく茫然と扉の前に立ち呆けてしまった。そっと扉に手を当てても、彼の気配はもう扉越しには感じられない。なんだったのだろうか。彼は、一人取り残されたくなかったとでも?
まさかね、とゼクシオンは頭を振ると、静まり返った扉を一瞥してから静かにその場を後にする。まだ誰の気配もない廊下を、彼の温もりを抱えながらゼクシオンは自室に向かって足を速めた。
20200213