闇夜の抱擁

 マールーシャの後に続いて部屋に入る。扉を閉めきると、明かりのついていない部屋はすっかり暗くなってしまった。ベッドサイドの窓から差し込む僅かな月明かりのみが、部屋の中の輪郭を曖昧に縁取っている。
 薄明りを頼りに部屋の奥まで進もうとすると不意に立ち止まった後姿に行く手を阻まれ、勢い余ってゼクシオンはその背中に衝突した。振り向いたマールーシャと扉の間に挟まれて暗闇の中を見上げる。顔があるであろう所をまじまじと凝視するが、そこにあるのは漆黒だけだ。光を失った部屋の中で相手の息遣いがこちらに向くのがわかると、次に伸びてきた腕の中にゼクシオンは素直に収まった。
 黒に包まれながら、彼の香を感じる。甘い、と思ったのは最初だけ。瑞々しい生を感じるのは束の間、深く吸い込むとそれは枯れて乾いた匂いに変わる。そして、後には何も残らない。一呼吸の中に、生まれて消えていくひとつの生命を垣間見たかのような気がした。命を与える力強さ、奪い去る強さ、散りゆく儚さ。複雑に混ざり合うそれらを、彼の香に感じた。消えていく香気を追うように、思わずその胸に額を押しつけてしまう。

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 頬に相手の指先が触れた。革手袋の冷たい感触が肌を舐め、包み込むように両の掌がゼクシオンの顔を捉えると、次に与えられたのは濡れた熱。ようやくその体温を唇に感じ、ゼクシオンも踵を浮かせる。暗闇の中で、そんな必要もないのに目を閉じてしまう。甘い香りが近く、闇の中に花開く誘惑の香りにじんと脳が痺れた。

 

 相手の太い首周りに腕を回して力をこめると、隙の生まれた脇腹に腕が差し込まれる。一層身体が密に触れ、闇に絡めとられていくようだ。じわじわと身体を侵食していく黒を心地よく感じているうちに、頬に触れていた手が首筋を滑り、コートの隙間に指が入り込んだ。促されるままコートを脱ぎ落とすと床に金具のぶつかる音が不快に響くが、それすらも襲い来る静寂に飲み込まれていく。
 マールーシャの髪の毛先が揺れているのが目に入った。ようやく暗闇に目が慣れてきたかと思ったちょうどその頃、再び伸びてきた手によって今度は視界を奪われる。ひとつ感覚が遮断されると、他の感覚が研ぎ澄まされる。深まる香り、生ぬるい感触が唇を割って、口内で蠢く。送り込まれる唾液を飲み下し、そうして少しずつ身体の外側から内側へと迫る闇を受け入れるうちに、じわじわと毒が回るように身体は徐々に熱を帯びていった。
 視界を覆われたまま、引きずられるようにして部屋の奥へと進んだ。倒れ込んだ先、馴染みのあるスプリングの効いた硬いマットレスを背中に感じると、その一瞬、拘束が解かれた。窓から差し込む僅かな光にゼクシオンは目を奪われる。窓の向こうは漆黒の夜空。その先に、ぽつりと打たれた点のように小さな月明かりが灯っている。我々が目指すもの。目指すべきもの。本当に?だとしたらこんなことにうつつを抜かしている暇などないはずだ。
 すぐそばの気配に意識が引き戻されると、こちらをじっと見つめる瞳が一瞬金色に光って見えた気がした。真相はわからないまま、再び視界は黒に覆われる。

 闇の中で手を伸ばした。相手に触れた、と思った。思い過ごしかもしれない。掴みどころのない彼をこの手で留めておくことなど不可能に感じられた。
 だから、相手を全身で感じるこのときは嫌いではない。それが一時の退屈しのぎであれど、生命の発する強い香りを肺腑の奥まで吸い込むと、空虚な胸の内が満たされたような気になる。

 うっとりとその感覚に浸りながら、広大な夜のような闇に抱かれていく。

 

20201106