追憶と白の部屋

 どこか寝苦しくて何度も寝返りを打つうちにすっかり頭が冴えてしまい、イェンツォはベッドの上で体を起こした。時計が差す時刻はまだ未明。深夜とも早朝ともつかない窓の外は暗く静かで、濃い闇は眠れない自分を差し置いて回り全てを飲み込んでしまう虚無の色をしている。
 軋むベッドを降りて部屋履きをつっかけた。ガウンを探して手をさまよわせるが、手近なところに脱いだままにしていた白衣を見付けると、そのまま手に取って肩に羽織る。冷たい白を纏い、イェンツォはふらりと私室を出た。
 廊下に出て静かに扉を閉めてからじっと耳をそばだてる。誰の気配もない。
 何を考えるでもなくイエンツォはそのまま歩みを進めた。足の向くまま目指す先は、レイディアントガーデンの誇る研究施設だ。

 研究員の皆々が日々多くの時間を過ごすことになるその施設は、同じレイディアントガーデン内の居住区とは別棟にある。いつもは行き来をものともしないのだが、皆が寝静まった深夜にそろそろと足を忍ばせて歩くとその道程はとてつもなく長く感じられた。寝ぼけているせいだろうか、などと思いつつも本当は思考がすっきりと冴えわたっているのをまた自覚していた。頬を撫でる冷たい空気に一層覚醒しながら、わき目も振らずにただ暗い道を進む。
 寒さか、はたまた緊張か、身体が小さく震えていることに気付かないふりをしてイェンツォはセキュリティの認証を解くと、するりと中に入り込んだ。自分は研究所の人間なのだから、自分の意志でここに立ち入ることは禁止されていない。もっとも、こんな時間にわざわざ入り込む必要があるのかと問われれば閉口せざるを得ないが。

 

 たどり着いたのは、研究所の中でも最重要施設ともいえようレプリカ体の保護部屋だった。無機質な最新設備は絶え間なく駆動しながらも沈黙を保っている。木々のように林立する機器の間を縫うように歩いて抜けると、部屋の奥には更にガラスに覆われた一角がある。ガラス越しに覗きこむと、寝台に横たわる人物の姿が見えた。薄暗い部屋の中で微弱の照明を受けて、そこにいる少女はまばゆく光を放っているようだ。白く華奢な四肢、黄金色に輝く頭髪を、イエンツォは食い入るように見つめる。

 被験者の名前はナミネ。ノーバディ、だったもの。
 彼女の蘇生は、用意されたレプリカ体に心を入れ込むところまで成功している。肉体としての蘇生は順調で、あとは心が目覚めるのを待つのみだ。まるで翌朝には何事もなく目覚めるんじゃないかと思わせる純真無垢な表情の一方で、その陰にある彼女の過去をイェンツォは思い起こした。
 かつて狭間の身だった頃、彼女とは忘却の城で時同じくして存在していた。人畜無害そうに見えて、記憶を操ることができる特殊な能力をもって機関の切り札とされていたナミネ。地上階を管轄する面々によって都合よく利用されながらもその存在は手堅く守られていたので、地下に拠点を置く自分との関わりは無に等しかった。

 そう、彼女は、『彼』のことをよく知っているはずだ。

 忌まわしき狭間の記憶に触れようとすると、途端に闇に染まっていた過去の記憶に色が差す。彼が色とりどりの花弁を常々纏っていたのは間違いないが、理由は本当にそれだけだったのだろうか。心無き過去とはいえ、彼を前にした自分はそれまで生きてきたどんな時よりも、言葉にできない感情に取り巻かれていたように思う。

(マールーシャ……)

 胸の中に昂る気持ちを押さえつけながら、イェンツォは口に出さずにその名を反芻した。
 この胸に心を宿した今、その名を思い浮かべるだけでとめどない感情が錯綜する。胸が締め付けられるように息苦しくなり、イェンツォはガラスの窓にそっと手をついた。
 彼は今、どこで何をしているのだろう。研究所に出入りしているデミックスから得られる情報によると、真十三機関の面々は光の勇者に次々と打ち破れていったという。今度こそ彼本来の姿場所に帰ったのだろうか。それがいったい何処なのか、今のイェンツォには知るすべもない。
 彼の過去など何一つ知らなかった。あの時はお互いがそれぞれの目的をもっていて、その傍らで僅かばかりの時間を共有していただけにすぎない。二人にあったのは、その時その瞬間だけ。過去を共有することもなく、未来を約束することもない、ただ都合よく互いを利用しあう関係。自分だってそのつもりで接していた。しかし、心を得た途端これだ。
 彼はこれまでのことなど忘れてしまったのだろうか。もう、会うこともないのだろうか。
 胸を埋める稚拙な想いに頭をかかえたくなる。心がなかった時の方が満たされていたなんて、そんなことが有り得るのか?

「……貴女は、僕の知らない彼を知っているんですね」

 そんな言葉が、零れ落ちるように思わず口を突いて出ていた。ガラスを隔てた先にいる寝台の少女は静かに目を閉じたままで、イエンツォの言葉は空虚に飲み込まれていく。
 すぐに我に返って自分の発言に頭を振った。どうかしている、こんな幼い少女に嫉妬だなんて。
 わかっていても堪えきれない気持ちを胸に、イエンツォはまばゆく輝く少女から目が離せなかった。

 

20201106