107 迷子になった

 ざわざわと風が木々の葉を揺らす音だけがあった。森のように生い茂るの木々の間を縫うようにして歩く。陽の光の届かない薄暗い道を、ゼクシオンは一人で黙々と進んでいく。目的地があるわけではないのに、その足取りに迷いはない。
 暗いところは何故だか落ち着くのだ。狭間の身になってから、ということも大きく関係しているとは思うが、思えば昔から暗くて狭いところを好んでいた気もする。大人の目をかいくぐって書庫やら倉庫やらに入り込み、何をするでもなく静かな空間を味わうように、息をひそめてただそこにいることが好きだった。ひんやりとした地下の石畳にじかに座る冷たさや、少し黴のにおいの混じる古い書物、しっとりとしたその表紙の指触りを、今でも明確に思い出すことができる。

 ぱき、と足の下で小枝の折れた音がした。一心不乱に歩いていたゼクシオンは、ようやくそこで我に返ったようにして立ち止まった。辺りを見回すも、道のないその森は木々が生い茂るばかりで何もない。振り返ってこれまで歩いてきたはずの道を確認しようとするが、何処を見ても似たような景色に一瞬にして前も後ろもわからなくなってしまった。
 進むことを諦めて、大きな木の根が隆起しているところにそっと腰を下ろした。魔力は使い切ってしまっている。任務で戦闘を要した際、慣れない地形と地の利を得た敵を相手に少々手古摺ったのだ。エーテルの持ち合わせもなかったが、少し休めば闇の回廊が出せるくらいには回復できるだろう。そう考えて暗く静かな場所を求めているうちにこんな奥地まで来てしまっていた。それに、なんとなくまだ一人でいたかった。

 ふとゼクシオンは、そういえば同行者は先に帰還しただろうか、と考えた。
 任務を受けてこの地に降り立ったときは二人一緒だったが、効率を考えて二手に分かれて任務にあたっていた。揃って帰還せねばならぬ決まりなどもない。ゼクシオンがいつまでも戻らなければ適当に切り上げて帰るだろう。そうしてくれていればむしろありがたい、とさえ思った。変に探しにこられたりしたらと思うとそれだけで陰鬱な気分に拍車がかかった。気を遣われるのは嫌いだ。
 背に寄りかかると濡れた木の匂いがした。じめじめとした森特有の空気は、昔の記憶をまた紐解こうとしている。誰にも干渉されずに自分の殻に閉じこもることが、まだ許されていたころ。肉体を失い、心も失い、あの頃の自分は一体どこに行ってしまったのだろうか。

 ざあ、と風が通りまた梢を揺らしたそのとき、ぱさりと頭上から何かが降ってきた。見ればそれは白い花だった。まだ瑞々しい花の首を見て、こんな花をつける樹があっただろうかとゼクシオンはなにげなく頭上を見上げた。……まさか、見上げた先にこちらを覗き込む目があるとも知らないで。
 すんでのところで声をあげそうになりながら、しかしそれはぎりぎりのところで飲み込みつつもゼクシオンは驚きのあまり体勢を崩した。気配など一寸たりともなかった。いったいいつの間に近くまで来ていたのだろう、マールーシャが真顔で木に寄りかかりながらゼクシオンを見下ろしている。

「勝手な行動は困る」

 そういう口調は断定的だったが、怒っている様子ではなさそうだった。
 地面に座り込んだままゼクシオンは呆然と聞き返した。

「どうしてここが分かったんですか」
「木々が教えてくれた、と言ったら?」

 マールーシャはそう言うと寄りかかった木に優しく触れて全体を見上げた。馬鹿なことを、と呟いてゼクシオンは軽薄に微笑む相手の表情から視線を外した。

「古参の貴方でも、あそこに帰りたくなくなることがあるのだな」
「別に、そんなんじゃありませんし、関係ないですし」
「帰ろう」そういってマールーシャは静かに手を差し伸べた。「一緒に」

 指先まで覆われた黒を一瞥すると、ゼクシオンはため息をついて立ち上がった。

「帰りますとも」

 そうしてその手を取らずに、差し伸べた彼すら視界から外しながら、ついとそのわきを抜けて歩く。元気そうで何よりだとマールーシャは肩をすくめた。横に並ぶわけでもなく、絶妙に距離をとって後ろからついてくるのは監視されているみたいで虫の居所が悪い。

「暗いところが好きなのか」何気ない様子でマールーシャが後ろから声を掛けた。「こんなところまで、ずいぶんと奥深くきたじゃないか。伊達に“影歩む”の名を背負っていないということか」
「静かなところは落ち着きますから」
「昔からそういう性格だったのだろうか」
「……さあ」
「根本は変わらないからな」

 まるで知ったように言うマールーシャの方を振り返りたくなったが、反応を示すのもなんだか癪で、なんとか堪えてまっすぐ前を見たまま道なき道を進む。

「今後貴方と共同で任務にあたるときは、そうやって分担することにしようか。私が明るい場所を、貴方は暗いを攻略する、というように」
「なんで僕が貴方とタッグを組むんですか」

 呆れた声でゼクシオンは一蹴する。が、言われたことを反芻しているうちに自然と歩みが緩やかになり、やがて立ち止まった。すぐ後ろにいたマールーシャは追いつくと急に立ち止まったゼクシオンを不思議そうに見る。

「……まあ、悪くないかもしれませんね」

 ぶっきらぼうな返事だったけれど、それに対してマールーシャが満足そうに口角を上げたのが分かった。
 ゼクシオンが宙に手をかざすと、闇の回廊が現れた。帰還できる程度には魔力も回復してくれたようだった。これ以上この男に貸しのようなものをつくるのは御免だ。
 黒い闇が身体を舐めるのを感じながらゼクシオンは思う。いつかまた彼と共同の任務に就くことがあるだろうかと。

 

*これはちょっと書けないかもな、と思ったものの、曲解に曲解を重ねて仕上げました。


今日の116
遊園地で迷子になったうえに携帯の電源が切れ、連れに呼び出しの放送をされる。