108 公園に行く

 電話が鳴る。ディスプレイを覗き込むと、恋人の名前が煌々と表示されている。こんな時間にどうしたんだろうとマールーシャは眉を顰めた。部屋の電波時計に素早く目を走らせると、予想に違わず深夜もとうに超えた時間だった。
 電話がきれてしまわないうちに、急いで通話ボタンを押した。もしもし、と聞こえてきた声は聞く限りはいつも通りで、特に様子がおかしいこともなさそうだ。僕です、と短く言うのでマールーシャは嘆息した。

「こんな時間にどうした」
「ちょっと……眠れなくて」

 そういってからゼクシオンは小さくすみません、と付け加えた。さすがに非常識な時間であることは自覚しているようだ。とはいえマールーシャもたまたまではあるが起きていたわけだし、彼の方からこういった連絡が来ることはかなり稀であるため、悪い気はしていなかった。

「子守歌でも歌って欲しいのかな」
「逆に目が覚めそう」

 くくっと電話越しに笑い声が上がった。彼の声と息遣い以外に聞こえるものはなく、電話の向こうは静かだ。眠れずに部屋で暇を持て余しているのだろう。
 話を聞く体制になろうとしてマールーシャは机の上に広げていた仕事の資料をざっとまとめて端の方へ追いやった。処理しきれなかった分を持ち帰ってつい先ほどまでパソコンと睨めっこしていたのだが、あらかた片付く目処が立ったのでちょうど終いにしようとしていたところだった。

「……ねえ、失礼ついでにお願いがあるんですけど」
「なんだ」
「会えませんか、今から」
「いまから?」

 驚嘆して繰り返しながら、マールーシャは再び時計に目をやった。深夜一時過ぎ。デートのお誘いにしては遅すぎる。ゼクシオンの家は、駅を挟んで反対側の方面にあった。交通機関を使わなくても会える距離ではあるため、こんな時間の誘いでも不可能ではない。面食らったままどうしようか思案して黙っていると、ゼクシオンも躊躇いがちに聞いてくる。

「もしかして、もう寝るところでした?」
「いや、まだこれからシャワーを浴びるからしばらく起きているつもりだ」

 けど、と喉元まで言いかけた。しかしゼクシオンは、ならちょうどいい、と明るい声を出した。

「十分でいいです。下に降りてきてくれませんか」
「下、とは」
「マンションの下。エントランスまで来てますので」
「はっ?!」

 目を剥いてマールーシャは思わず席から立ち上がった。下に、来ている、だと?
 はっとして、ベランダに続く窓に駆け寄った。カーテンを開け、クレセント錠を外し、素足のままベランダに降り立つ。欄干から下を覗き込むと、マンションの入り口付近に黒い人影が見えた。遠いので識別できないが、こちらに向かって手を振っているように見えなくもない。

「上着、忘れないでくださいね。夜は結構冷えますので」

 呆然とするマールーシャとは相反して、スピーカー越しのゼクシオンの声は楽しそうに弾んでいた。

 

 

 マンションの近くに公園がある。秋になると銀杏の並木が見事なことでこのあたりではそこそこ名の知れた公園だった。遊具などがあるエリアだけでなく、散歩道がきれいに舗装されていて結構な広さがあるので、歩いたり走ったりしている近隣住民が多くみられる。この公園の存在は、マールーシャが今の自宅を決める際の大きな決め手にもなった。大きな公園が近くにあるというのは聞こえがいいものだ。休日にゆったり散歩したり早朝のランニングに勤しむ姿を理想としていたが、しかし仕事に忙殺されてなかなかそんな余裕が持てないのが現実であった。
 そんなわけで、日中や早朝はおろか、こんな深夜の公園に足を踏み入れたのはマールーシャも初めてだった。
 携帯電話での通話を終えてから、貴重品と上着だけ掴んで慌ててマンションのエントランスに駆けつけると、宣言通りゼクシオンがそこで待っていた。

「お前……どういうつもりだ」

 息を弾ませながらマールーシャが困惑して問いただすも、ゼクシオンはどこ吹く風だ。

「眠れないから散歩してたんです。貴方の家の下まで来たら電気がついているのが見えたので、もしかして起きているのかなあと思って電話してみたんです」

 電話冒頭のしおらしさはどこへやら、ひょうひょうとゼクシオンは言ってのけた。彼らしからぬ突飛な行動に複雑な心境になっていたが、マールーシャが小言を言う前にはい、と何かを渡された。

「ホットココア。夜は意外と冷えるでしょう。コーヒーにしようかと思ったけど、寝る前なので避けた方がいいでしょうから」

 まだ熱いくらいのスチール缶を手渡されて、マールーシャは驚いた。缶の熱さにではない、触れたゼクシオンの指先が随分と冷たかったからだ。マールーシャに上着を着てくるよう言っておきながら、彼の方は随分と薄着だ。

「飲みながら、少し歩きませんか。そこの公園まででいいので」

 そういうとゼクシオンは、返事を待たずに先導して歩き始めた。恋人がこんな夜行性だったなんて知らなかった。マールーシャは上着のポケットに缶を押し込むと、大股で先行く背中を追いかけた。すぐに追いついて、並んで歩く。当然ながら通りには人っ子一人いない。車すら通らない静かな道を、二人で静かに進んでいく。
 公園に差し掛かると、入り口付近にあるベンチに二人で並んで腰かけた。

「ここの公園、良いですよね。図書館に行くときに通るくらいですけど、道も広くてきれいだし。運動している人も良く見かけます。あれ、ジョギングするとか言ってませんでしたっけ、やってるんですか」
「……耳が痛い」

 マールーシャが唸るように言うとくすくす笑いながらゼクシオンがさりげなく両手をこすり合わせた。今月に入ってから一気に秋めいて、朝晩は急に冷え込むようになっていた。
 隣に座るゼクシオンの手を取り、そのまま有無を言わさず自分の上着のポケットに連れ込んだ。ココア缶のおかげで異様に暖かくなったそのなかで、安心したようにゼクシオンの指先が緩むのが分かる。

「眠れないとこうしてよく出歩くのか」
「……たまに、ですよ」

 前を見たままゼクシオンが答えた。どうだか、というが否定の言葉は返ってこなかった。
 人の体温を取り戻してきた指に、そっと自分の指を絡めた。ごく自然に二人の距離が縮まっていく。マールーシャの肩に寄りかかると、ゼクシオンは長いため息をついた。安堵からくるものだとわかる。

「今なら眠れそう」

 そういう声は、たしかにゆったりとして微睡みを感じさせた。寄りかかる体重がマールーシャも心地よい。このまましばらくこうしていたいと思わずにいられなかったが、当然ながらこんなところでさあおやすみなさいというわけにはいかない。

「泊っていくか?」

 静かに、そう耳元で囁いた。特段下心はなかった。明日も仕事だし、微睡んでいるゼクシオンを見ていたらただ素直に寝かせてやりたかった。駅を超えて自宅に帰らせるよりは、マールーシャの部屋の方が断然近い。
 ゼクシオンはほんの少し悩む素振りを見せたが、ゆるりと首を横に振ると身を起こした。と同時に、ポケットの中の指がほどかれていく。

「ありがとうございます、でも、明日も朝が早いので」

 さっきまでの微睡みはどこへやら、ぱきっとした声でそういうとゼクシオンはひょいっとベンチから立ち上がった。ううん、と伸びをするのでマールーシャも横に並んで立った。伸び終わってからこちらを見上げてきたゼクシオンの表情は、今夜最初にあった時よりもすっきりしているように見える。

「急に呼び出してすみませんでした。でも、おかげで帰ったら眠れそうです」

 自宅まで送るといったが丁重に断られた。このまま帰すのはなんだか気が引けて、何かないかと考えを巡らせた末、着ていた上着を脱いでゼクシオンの肩に掛けた。やはり肌寒かったのだろう、まだ少し体温の残る上着を首元に寄せると、あたたかい、とまた少し緩んだ声を出した。
 帰ったら連絡することを約束して、その場でおやすみと言い合って別れた。ゼクシオンの背中が小さくなって見えなくなるまで見送ってから、マールーシャも帰路についた。秋の冷たい風が吹き抜けていく。そういえば、貰ったココアを上着に入れっぱなしだったことを思い出した。せっかく彼の厚意だったのにとほんの少し悔やんだが、ポケットの中の温もりが一人夜道を歩く恋人を少しでも温めてくれたらいい、と願う。
 指先に絡む熱を、マールーシャもまだ忘れられないでいた。

 

*「公園」というワード以外ほぼ添えませんでした…

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今日の116
公園に行く。鉄棒があったので二人で挑戦。前まわりくらいできるけど、逆上がりとか懸垂……どうだろう。