109 お味噌汁を作ってみた
特段金のかかる趣味があるわけでもないため、使い道が自然と食事に多く振られるようになっていったというのは本人談である。
二人で食事に出かけるときは専ら洋食店に入ることが多い。
駅前のカジュアルイタリアンは、彼がいつも決まったメニューを懇意にしている傍らそろそろあらかたのメニューを制覇してしまいそうなくらいよくいく。一度連れていってもらった地中海料理の店は魚介類を中心としたメニューでゼクシオンもすぐに気に入った。特別な日にはフレンチのコースを予約してくれることも少なくない。格式高そうなレストランはやや気疲れしてしまうのだが、やはり雰囲気からくる満足感は他には代えられないとも思う。
酒も嗜むので、食事が済んだあとふらりとそういった店に立ち寄ることもままある。照明の絞られた洒落たバーのカウンター席で、間接照明を受けながらぼんやりとロックグラスを傾ける恋人のなんと絵になることか。ゼクシオン自身はあまり酒を飲む方ではないため軽く一杯付き合う程度だが、ろくに飲まないくせに同席する目当てはそちらだったりする。
グルメなだけあって恋人は料理の腕前も確かなものだ。夕食に出てくるロールキャベツは甘く煮えていて際限なく食べれてしまうとさえ思う、お気に入り手料理のうちの一つである。今日はとことん家で飲むと決めた日は、食べたいものを思いつく限り書き出して全部作って食べるのも彼の楽しみ方の一つだ。トマトとバジルが色鮮やかなオードブルに始まり、貝類をふんだんに使ったパエリアは店のものにも劣らぬ味だ。
そうやって高級な物ばかりの贅沢の限りを尽くしているように見えるが、ジャンクなものだって守備範囲内だ。ラーメンだって啜るし、ファーストフード店にだってたまには足を踏み入れる。テイクアウトやデリバリーを使って自宅で映画を見ながらジャンクフードをつまむのもたまらない。
……そういえば、彼との付き合いが続くうちに少しばかり太ったかもしれない。もともと食に楽しみを見出しておらず最低限の栄養補給で満足していたたちなので、標準体重に近づいたといえばそうなのだろう、とゼクシオンは時折自身の身体を見下ろしてはまだ放っておいている。
そして彼の方はと言えば、食に精通している一方できちんと定期的に身体を動かしているらしく、同世代の人間が腹回りの緩みがちな年齢に突入する中で一切の体型の乱れを感じさせなかった。ちなみにゼクシオンは運動には明るくないので、彼が走ったりジムに出掛けているのに誘われても断固として同行しなかった。(そのうち彼も承知して誘ってこなくなった。ありがたい。)
食事は生きていく以上欠かせない中で、大切な人とその時間を共有し楽しむことができるのは素晴らしいことだ。年齢差もあって外食に行けば必ず御馳走してくれたし、料理上手な恋人というのは誇らしくもある。食の趣味もおおむねあっていたので対立を起こしたこともない。
気になる点があるとすれば、最近緩やかに体重が増加傾向にあること、そして、彼の選択肢に上がるものは、洋食が圧倒的に多いということくらいだった。
自宅で目が覚めたときはもう日が高かった。よく寝たおかげですっきりと目を覚ましたゼクシオンは、このまま布団から出るかどうか少し悩んだ。昼近くまで寝ていたせいで腹が減っている。けれど布団ごと抱きかかえている恋人の腕の中から抜け出すのは、物理的にも精神的にも困難であった。あたたかい体温に寄り添ってしばらくの間相手の寝息に耳を傾けていたが、やはり空腹に抗いきれずに布団から抜け出すことにした。抵抗も少なくすんなりと抜け出せたところを見るに、マールーシャもよく眠っているようだ。
昨夜は仕事を終えたマールーシャと駅で落ち合った後、例によって外食を済ませてから連れ立ってゼクシオンの自宅に帰ってきた。小さなキッチンしかないこの家では料理の腕を振るうにも振るいきれないため、彼を泊めるときはたいてい外で済ませるようにしている。
週末ということもあり酒も少し入って機嫌のいい夜だった。白ワインを一杯だけもらったら、すぐに酔いが回ってしまった。美味しい食事に舌鼓を打ってふわふわした気分で帰宅したのち、シャワーを譲り合っているうちに酔っ払いを一人にしておくのは不安だとか何とか言い出したマールーシャに連れられてバスルームに入った。普段ならこの壁の薄いワンルームの部屋では滅多にことに及ばないはずなのに、なあ、だめか、などと珍しく甘えた声を出されたらもう断る理性など残っているはずもなく、そのまま訳の分からないことになっていったのだった。相手もおそらくわかっていて飲ませた節がある、とゼクシオンは睨んでいるが、もちろん悪い気はしていない。週末の夜は、たいてい何でもありになる。
などと昨夜の様子を思い出して重だるい身体をさすりながらゼクシオンは服を身に着けて水を飲んだ。喉を潤してから、改めて自身の空腹について考える。昨夜はいつぞや連れていってもらった地中海料理の店に再び足を運んだ。酒のお供につまんだオリーブの塩漬けや香辛料の効いた肉料理はいずれも絶品には違いないが、外食となるとどうにも重たいものが続きがちである。少量ではあるが酒を飲んだこともあり、何か胃に優しいものが欲しい気分で冷蔵庫の中を検分する。自炊はあまりしない性分故常備しているものがほとんどない有様ではあるが、簡単な味噌汁程度なら作れそうかなとあたりをつけた。どうせそう遠くないうちに昼食を取るだろうし、手軽で温かい汁物は外食続きの胃腸にとっても魅力的に思えた。しじみ汁でも作れればと思ったが生憎そんなものを在庫していたためしがないため、具材に出来そうなものをいくつか取り出すと手早く鍋に水を汲んで火にかけた。
マールーシャは和食を好まないわけではないが、どうしても選択肢に上がるものとしては洋食が多かった。粉末の出汁を湯に溶かしながら想像する。野菜の煮えるどこか甘くも思える香り。身体の奥深くに浸透していくような、角のない口当たり。そう、和食のあの、出汁のやわらかい味わいが恋しかったのだ。
具材を適当に切りわけてから鍋に投入した。具材が煮えるまで、趣味で漬けている糠漬けをつまみながら火の番をしていると、ベッドの方でなにやら動きが見えた。振り返ると、今起きましたという顔でマールーシャがこっちを見ていた。
「何をしているんだ」
「ちょっと小腹が空いてしまって、味噌汁を作るなど」
へえ、というとマールーシャは布団を剥いで興味深そうにこちらにやってきた。露わになった白い肌にところどころ赤い痕が付いているのが見えて、目のやり場に困る。
「良い匂いがする」
ふんふんと匂いを嗅ぎながら、マールーシャは腕の中にゼクシオンを捕まえようとした。
「あ、ちょっと、火を使ってるから駄目ですよ。先に顔を洗ってきてくださいね。あと、服もちゃんと着て」
照れ隠しに追い払う仕草をすると、懐こそうに目を細くしてマールーシャは大人しく言われたとおりに洗面所に向かっていった。
水音を聞きながら、具材に火が通ったのを確認して味噌を溶き入れた。味噌汁は失敗もほぼなく手軽にできて良い。具材によってバリュエーションを変えることもできるし、それにやはり出汁の香る食事はなんだか安心するものだ。おそらく味噌汁だって彼に作らせれば、やれ昆布だやれ鰹節だと本格的な出汁を引くところから始まるのだろうが、そんな凝ったことをしなくたって十分美味しいのだし、もちろん彼もそれについて言及することもない。間違いなく舌は肥えているだろうが、程度に関わらず美味しいものを共有できるのが彼と付き合う中で好ましいところである。
二つの椀を取り出してゼクシオンは湯気の立つ味噌汁を取り分けた。マールーシャがこの家に泊まりに来ることもそれなりにあるので、衣類や生活用品のほかにこうした食器も少しずつ増えつつあった。棚がだんだん窮屈になっていくのは、どこか気恥ずかしく嬉しくもある。
戻ってきたマールーシャはきちんと服を着ていて、寝起きの表情から一転していつもの凛々しさを湛えていた。用意したものをテーブルに運んで席に着く。奇妙な時間ではあるが、休日の朝食だ。大根と豆腐の味噌汁のほかに、漬けておいた茄子の糠漬けもすこし皿に取って出した。
「身体に染み入る感じがする」
いただきます、と丁寧に手を合わせてから味噌汁を一口啜ったマールーシャがしみじみと言った。全くもって同感だとゼクシオンは頷く。手に包むように持った椀から伝わる温かさ。絶妙な塩加減。透き通った大根もよく煮えている。豆腐はどこか歪(いびつ)だけれど、口に入れてしまえば気にならない。
「豆腐、なんだかガタガタになっちゃいました。これとかすごく薄い」
「横着して手の上で切るからだろう。まな板を使え」
「あれ、見てたんですか、いやだな」
「はらはらした。怪我なんてしてないだろうな」
じっとマールーシャが見つめてきたので、ゼクシオンは苦笑して降参するように両掌を向けて見せた。傷のないのを認めると、ならよろしい、とマールーシャはまた味噌汁を啜る。具材を着る段階でもう起きてたなんて気付かなかった、とゼクシオンは内心驚いていた。ずっと見られていたんだろうか、と思うとどことなくむず痒い。
味噌汁だけの質素な朝食はすぐに食べ終わった。マールーシャは美味しいと言いながら鍋に残った分までお替りしてくれたので、ゆっくり味わう様子をゼクシオンぼんやり眺めていた。
「和食もいいな。なんというか、家庭的で」
「でしょう」
何故だか得意げにゼクシオンは答える。老舗店の懐石や衣のサクサクした天麩羅なんかである必要はない、一汁一菜だって和食は良いものだとゼクシオンは熱を込めて語った。これを機に彼の選択肢に和食が加わったらいい。
マールーシャはにこにことゼクシオンの話を聞いていたが、不意に椀を持ったままぽつりと言う。
「なんとなく朝はコーヒーから始めてしまっていたが、味噌汁は染み入りかたが違う」
「和食の朝もいいですよね。汁物はなんだか安心するというか」
「私が作ったら食べてくれるか、毎朝」
そう言ったときのマールーシャは、やけに真っすぐこちらを見ていた。すぐにゼクシオンは、もちろん、と相好を崩す。
「貴方はきっと出汁の取り方からこだわるんでしょう。楽しみですねえ」
それはお世辞のつもりではなかったけれど、マールーシャはそれに対して何故だか曖昧に微笑んでまた静かに椀を傾けた。
毎朝かあ、とゼクシオンは考える。こうしてたまに互いの家を行き来しては一緒に迎える朝は貴重でかけがえのない時間だ。一日の始まりを恋人と過ごすことができるというだけでも嬉しいというのに、そこに朝食が付いて、しかもそれが、毎朝。
……あれ?毎朝って。はた、とゼクシオンは思考停止に陥る。
ことりと音がした。マールーシャが食事を終えたらしく、椀を置いたのが視界に入る。黙ったままじっとこちらを窺っている気配がある。
――私が作ったら食べてくれるか、毎朝。
彼の言葉を反芻しているうちに、ゼクシオンは耳の熱くなってしまった顔を、もうあげられなくなってしまっていた。
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今日の116
お味噌汁を作ってみた。火も包丁も使うのに、そんなにぴったりくっついて大丈夫?お豆腐も、手の上で切るの?ハラハラです。