110 記憶喪失になる4
何も見えない、何もわからない。けれど漠然とした不安がつきまとい、見えない何かから身を守ろうと肩ひじを張って縮こまっているうちに、全身をこわばらせたまま朝を迎える。
目が覚めると、世界は一転して真っ白だ。天井と、ベッドを囲うカーテン、布団もシーツも、潔癖なくらいの白。白い世界は清潔なはずなのに、何一つわからない自分が浮き彫りになるようで居心地悪く感じられた。体が痛いのは、眠っている間に力んでいたからだけではない。車にはねられた上に頭まで打っているのだから、亀裂骨折程度で済んでいることがむしろ奇跡のようなものだ。
夢見が悪かったせいだろう、嫌な汗をかいていて不快だ。しかし窓を開けようにも今の自分は身を起こすことすらままならない身体である。もどかしさと歯がゆさに、起きたばかりだというのにうんざりとした気分になってゼクシオンは長く息を吐いた。
交通事故にあってこの病院に運ばれてから数日がたっている。事故のことは覚えていない。医師から聞かされた話によると、交差点で信号無視をして突っ込んできた車と接触したのだという。
頭を打っていることもあり軽度の記憶障害が見られたが、時間の経過で回復するだろうと医師は当初判断したようだった。しかし事故から数日がたった今、変わらず思い出せることはない。記憶があやふやなままでいることも不安でありストレスに思えた。事故のことはおろか、自分のこともよくわからない有様だ。事故の割には軽傷で済んでよかったなどと言う者もいたが、本当にそうだろうかとゼクシオンは思う。誰もこの不安を理解していないから外側ばかり見てそんな風に言うのだ。このまま何も思い出さなかったらと思うと、自分のことすらわからずにいずれはここからも出て行かねばならなくなることを思うと、どうしようもなく気分が塞いだ。夢で見た黒い闇が、起きている今も尚、病室内にまで浸透してきている。
身を起こすことをあきらめて、仕方なく再び眠くもないのに目を閉じる。寝ても起きても悩まされるなら、せめて現実から目を逸らしたい。
事故にあってそのまま、目が覚めない方がよかったんじゃないか。そんなことを思わずにいられなかった。
入院生活は決して楽なものではない。痛む身体を文字通り引きずるようにして病棟をあちこち移動させられ、やれ検査だの処置だのと怪我人は怪我人なりに忙しいのだった。
この日も相変わらず記憶が曖昧なのでいくつか検査とカウンセリングを受けた。たったそれだけの出来事なのに、ぐったりして部屋に戻るともう夕方だった。
食欲がなくほとんど食事がとれないため、点滴ばかり受けていた。看護師が入ってきたのでもうそんな時間かとゼクシオンは腕を捲って迎えた。が、看護師はいつもと違う様子でゼクシオンの顔色を窺いながら尋ねてきた。
「面会の人がきているのだけど、お会いになりますか?」
それは全く予期せぬ展開だった。聞けば、多少起きあがれるようになったので今日から面会の許可が出ているらしかった。面会にきてくれるような人物がいたのかと純粋に驚く一方で、それが家族なのか、友人なのか、はたまた恋人なのかもわからない。思い浮かぶ人物が誰もいないことに気付いてまた少し気持ちは沈んだ。看護師が面会者の名前を読み上げてくれたけれど、思い出せることはなかった。
「気分が優れないならお断りしても大丈夫ですよ」
暗い表情のゼクシオンを見て看護師はそう言ってくれたが、悩んだ末ゼクシオンはその人物に会ってみることにした。家族も友人もわからなかったけれど、思い起こせばひとりだけ心当たりがないこともなかった。
体調も心身共に万全ではないので、顔を見るだけなら、と伝えてもらうと、程なくしてその人物が病室に訪れた。看護師に連れられて扉をくぐった相手を一目見て、やっぱり、とゼクシオンは心の中で思った。目が覚めたとき、真っ先に駆けつけてくれた男性だった。
華やかな桃色の頭髪が印象的だったその人は、やっぱりその頭部が視線を引きつけた。男性にしては長い髪の毛は、癖毛なのか自由にはねている。すらりと背が高く、自分がベッドに横たわっていることを差し引いてもかなり身長差があるように思えた。しかし華やかな印象とは相反して、状況を知ってか沈痛な面持ちでこちらをまっすぐ見つめている。
看護師が彼と二、三言話してから部屋を出ていく。気を利かせてくれたのだろうが、知らない人物同然の相手なので逆に居心地が悪くなった。誰ですかなんて聞けるわけがない。いや、最初に彼と対峙したときに動転してそんなことを口走ったかもしれない。その質問の答えは結局のところ得られていないが、面会の許可が出て真っ先に会いに来てくれる人物に、いくら記憶があやふやとはいえ軽々しく聞けるほど肝は据わっていなかった。
身体も満足に動かせないので、ゼクシオンは不安げに相手を見上げるほかなかった。
「マールーシャだ」
低く響く声で彼は名乗った。名前は事前に聞かされていたものと相違ないが、本人の口からそれを聞いたところで思い当たることはない。ゼクシオンは黙ったまま頷いた。
よくみれば、綺麗な顔立ちの人だ。姿勢もいいし、委縮してしまうくらい目力が強い。男女問わず放っておかれないだろうな、などと考える。こっそり手を見るが、指輪の類いはしていないようだ。
彼は名乗ってくれたものの、それ以上の情報は話そうとしなかった。会いに来たのなら何か言うとかしてくれないだろうか、とゼクシオンが気を揉み始めたとき、心を読んだかのようにマールーシャが口を開いた。
「……今日は、これを渡そうと思って来たんだ」
そういいながらマールーシャは手に持った紙袋を掲げた。見舞いの品まであるとは驚いた。食べ物だったら困るな……とゼクシオンはこっそり不安になる。変わらず食欲はないし、いくら厚意とは言え知らない人からもらったものを、今は食べる気になれなかった。
何とも言えない気持ちで彼が紙袋の中身を取り出すのをぼんやりと眺めていたが、取り出したそれを彼がサイドボードにおいたのを見て、あ、とゼクシオンは声を出した。
それは一冊の本だった。しかも、自分はその本を知っている。頭の中で誰かが電気を点けたような、急に焦点が合うような感覚が脳を巡り、身体が痛むのも忘れてゼクシオンは身を起こした。
「ずっと一人で過ごすのも退屈だろうと思って。起きて読めるかわからなかったから、今日のところはこの一冊だけなんだが」
そう言いながらマールーシャは一度置いた本をまた手に取り、物欲しそうに見つめているゼクシオンに手渡してくれた。
渡された本をじっと見つめて考える。自分のことや他人のことはほとんど思い出せないでいるが、読んだ本のことはどうやら記憶に残っているらしい。出口の見えない迷宮の中でそれはひとつの大きな発見だった。
「……よかったら、時々またこうして本を渡しに来てもいいだろうか」
穏やかに、けれど慎重そうに彼は聞いた。どきどきしながらゼクシオンは頷く。断る理由はないと思った。本を通して何か思い出せることがあるかもしれないし、自分のことを知っている人が一人でもいてくれたことが純粋に嬉しく、心強く思えた。
承諾を得たマールーシャは安堵したように頬をゆるめた。ふわ、と花が咲くようなその笑みに、どきりとゼクシオンの胸の奥がざわめく。ほんの一瞬、いくつもの感情が浮かんでまた消えた。包まれるような安心感であるような、身の切れるような切なさでもあるような。やっぱり自分は、この人のことを知っているに違いない。
読み終える頃にまた来ると告げると、マールーシャはすぐに部屋を辞した。面会時間は五分にも満たなかったように思う。あっと言う間だったけれど、久しぶりに人と対峙して緊張したのだろう、そのあとはぐったりとしてしまった。様子を見に来た看護師が早めだがと部屋の明かりを落としてくれたが、そのときもゼクシオンはもらった本を腕に抱いたままでいた。
いつも感じる迫られるような不安感は今日はなかった。まだどきどきしていたけれど、それも不快なものではない。彼の穏やかな声や、優しく微笑んだ表情を、何度も反芻した。去り際の彼の真っ直ぐな眼差しに、まるで大丈夫だと励まされているかのように思え、不安な気持ちはいくらか和らいでいた。不思議な人だ、とゼクシオンは思う。彼のことを、もっと知りたい。
心地よい興奮は、やがてとろりとした微睡みへと変わっていく。
今日は、悪い夢を見ないような気がした。
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今日の116
記憶喪失になる。知らない人が訪ねてきて「大丈夫だから」と励ましてくれた。あれ、この人どこかで会ったことある気がする。