008 雨に降られてずぶ濡れで帰宅
「とんだ災難だった」
「ええ全く」
苦々しい声で呟いたマールーシャは濡れた靴のままずんずんと部屋を横断し浴室に向かった。ゼクシオンは辛抱堪らずぐっしょりと濡れて重たく肌にまとわりつくコートを床に脱ぎ捨てた。ブーツを脱ぎ去ろうとかがむと濡れた髪の毛の先からぽたぽたと落ちる水滴が床をも濡らす。
本日の任務は新しいワールド調査だった。見慣れないハートレスが多数出現するという情報から、戦闘要員としてマールーシャとタッグを組んでゼクシオンはその地を訪れていた。現れるハートレスは敵として脅威となりえるほどの強さはなくつい油断していたところ、次々と群れ成してその本来の力を誇示した。おまけに気候の安定しない世界で、雲行きが怪しくなってきたと思ったらぼつぼつと大粒の雨が降り出したのだ。足元はぬかるみ、やがてあたりが真っ白になるほどの豪雨に発展し始めたため、二人は撤退を余儀なくされたのである。
「あそこはだめですね。気候が悪すぎます。加えて敵はあの気候に順応している」
泥塗れのブーツをも脱いでゼクシオンは考察を述べた。頭の中ですでに報告書に記載する文面を練り始めている。
「任務の考察はあとだ」
不機嫌そうに大股で戻ってきたマールーシャは、脱ぎ散らかされた服やらで泥汚れの広がった床を見て更に顔をしかめた。
「人の部屋に来ておいて、自室のような自由さだな」
「貴方が連れてきたんでしょう。熱いお茶でも出してくれるのかと思いましたよ」
「風呂が先だ」
そう言うとマールーシャは持ってきたタオルをゼクシオンの濡れた頭にばさりとかけた。
「湯をためているから先に入れ」
「貴方は?」
「後でいい。お前を見ているほうが寒々しい」
「そうですか、ではお言葉に甘えて」
ゼクシオンは素直に浴室に向かった。実のところだいぶ寒くて参っていたのだ。手足共に、指先の感覚はほとんどない。
シャワーを浴びて体の汚れを落とすと、湯気の立つ浴槽に身を沈める。冷え切った指先にじんじんと響くように熱が浸透していった。うう、と腑抜けた声が口から漏れ出す。
部屋の主を差し置いて一番風呂をいただいてしまうのはほんの少し気が引けることもなくはなかったが、まあいいだろう、とゼクシオンはバスタブの中で足を伸ばした。彼を労るのは、暖まってからでも。
浴室の扉が何の断りもなく開いてマールーシャがやってきたのはそんなことを考えていた矢先だった。
「前言撤回だ。寒い」
服のまま入ってきたかと思うと、呆気に取られているゼクシオンに構わずその場で服を脱ぎ始めた。服を外に投げ捨てると、かぶるようにシャワーを浴びる。いつも血色の良い唇も少し色が悪いように見えた。人間味を感じさせる様子が物珍しくて、ゼクシオンはその横顔に少しの間見入った。
「貴方も寒さを感じるんですね」
「お前は私を何だと思っているんだ」
呆れたように言いながらマールーシャはシャワーを止めるとバスタブの縁(へり)に足をかける。見下ろす目が、場所をあけろと訴えかけてくる。
「いや、さすがに二人は無理ですって」
「詰めればいける」
「ご自分の体積を考えてください」
「いいからもっと詰めろ」
浴槽の中でのびのびとくつろいでいたゼクシオンはしぶしぶと端に身体を寄せる。わずかに空いたスペースにマールーシャが半ば無理矢理身体を沈めると、溜めていた湯は豪快に溢れ出し浴槽を超えて流れ落ちていった。
「ああ、ほら……もったいない」
「構うものか」
「僕もう出ますから」
「いいから、もっとこっちにこい」
狭い浴槽の中でぎちぎちと身を寄せ合うのは全くロマンチックではなかったが、後ろからぐいと力強く抱きかかえられるとゼクシオンはぶつぶついいながらもおとなしく腕の中におさまった。背中に感じるマールーシャの身体はまだ少し冷えていて、寒い中風呂の支度をして先に湯に入れてくれたことに僅かに罪悪感が募った。罪滅ぼしの気分で、浴槽からはみ出ている腕に湯を掬ってはかけを繰り返すなどしてみた。触れ合う肌の温度が馴染んでくると、長く息をついてマールーシャはゼクシオンの肩に顎を乗せた。
「せっかく一緒の任務にあたったのに災難だったな」
マールーシャが背中越しに小さく言うのを聞いて、返事に困ったゼクシオンは無言でうなずく。
「……怪我、してますね」
ふと、触れる腕に切り傷を見付けた。先ほどの戦闘の中で負ったのだろう。赤く腫れているその傷に指を這わせると、ああ、と別段珍しくもなさそうにマールーシャは返事をした。
「意外と素早い奴らだったな」
「あの雨の中泥濘に足を取られることなく動けるのは足が環境に順応して発達しているのかもしれませんね。視界の悪い雨の中も動じずに動き回れるあたり、目の構造も特殊な何かが……」
「まてまて、小難しい話はあとにしてくれ」
遮るようにしてマールーシャが言う。やや不服気味にゼクシオンは口をつぐんだが、何を思うでもなく腕をとると、その痛々しい傷口にそっと口付けていた。
「のぼせてしまうよ」
くつくつと笑いながらマールーシャはまたゼクシオンの肩に頭を落とした。いつのまにか背中に感じる体温はすっかり熱くなっている。
頭の中に練った報告書の文面は、温かい湯に浸かっているうちに少しずつ溶けていくように感じられた。いくらでもあとから練り直せばいい。風呂から出たらまずはその傷口を手当てするのが先だなと、ゼクシオンは考える。
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今日の116
雨に降られてずぶ濡れで帰宅。浴室はひとつしかないけれど寒かったので一緒に入る。