112 喧嘩をした勢いで

 仕事を終えて帰宅した。終電の一つ前。繁忙期の山場も山場で連日帰宅時間は遅い。スリッパの裏に粘着質な何かが付いているかのように足取りは重たかった。
 居間に続くドアを開けると、ソファで本を読んでいたゼクシオンが顔を上げた。テレビはついていない。静かな部屋に、お疲れさま、と彼の声が響いた。が、疲れでぼんやりしていたマールーシャはついお座なりに返事をすると、のろのろとテーブルを回り込んで背中を向けるようにして沈むようにダイニングチェアに腰かけた。それと同時にゼクシオンは腰を浮かせる。

「何か食べますか」
「いい、済ませてきた」
「お茶でも入れましょうか」

 あまり気分ではなかったが、黙っているうちにゼクシオンは返事を待たずしてキッチンに立った。水を汲む音、コンロの火を入れる音。かちゃかちゃと茶器を取り出す音に紛れて、欠伸をするのが聞こえた。随分遅くなってしまったし先に寝ていたらよかったのに、とマールーシャは思う。帰りは遅くなるので待たなくていいとは再三伝えているものの、共に生活をする部屋でゼクシオンは律儀に毎晩疲れ切って帰ってくるマールーシャを迎えた。はじめはそんな気遣いも嬉しかったが、日々業務に忙殺され気持ちに余裕がなくなってくると、恋人の優しさに素直に甘えられなくなってきていた。

 ぼうっとしていると、目の前にカップが置かれた。緩やかに立ちのぼる湯気を目で追いながら、お礼も言わずにマールーシャはぼんやりと眺め続ける。
 マールーシャの機嫌があまりよくないのを察知しているのであろう、いつもなら一緒にテーブルに着くゼクシオンも、カップを置くと静かに距離をとった。ソファに戻ったようだ。
 無言がしばらく続いたあと、再び立ち上がる気配。先に寝室に行きますね、と彼は静かに言った。

「最初からそうしていたらよかったのに」

 今度は口に出ていた。ぴし、とひびが入るように空気が凍り付く。一瞬動きが止まったが、そうですね、と目を伏せ彼は静かに部屋を出ていった。
 寝室の扉が静かに閉まる音を聞いてから、マールーシャは大きくため息をついてぐしゃりと髪の毛を掻き上げた。気持ちに余裕がなくていけない。今のは、完全に自分が悪かった。疲労を言い訳に大切な人を邪険に扱っていいはずがないというのに。
 立ち上がると大股で寝室に向かい、ノックをしてドアを開けた。今度はゼクシオンがぼんやりと一点を見つめたままベッドの上に膝を抱えて座っている。ゼク、と呼びかけるも、返事はない。
 背中側に腰を下ろすと、小さな背中を包むように後ろから腕を回して抱いた。

「すまない。私が悪かった」

 強張った身体に縋るようにしてマールーシャは呟いた。何度でも、伝わるまで呼びかけようと思った。

「もう僕帰りましょうか」

 ゼクシオンの言葉に今度はこちらが凍り付く。疲れたような表情のままゼクシオンは項垂れて言った。「最近、もうずっとこうじゃないですか」
 本格的に二人での生活を見据えてゼクシオンがマールーシャの家にほぼ身を置くようになってきている中で、多忙を理由にすれ違う生活が続いている。この山場さえ乗り切ればもう少し自由に時間を使えるようになると思いながら、苦労しているのは自分ばかりと思って相手にも我慢を敷いていることを忘れていた。

「時間が作りたかったんだ」
「こんなことになってまで? ばかみたい」

 ぐうの音も出ない。
 腕の中でゼクシオンが身を捩る。恐る恐る腕を緩めると、ぐるりと身体の向きを変えてマールーシャの胸に顔を押し付けた。自分の時間を犠牲にしてでも欲しかったのは、この重みと体温なのだ。
 罪滅ぼしのような気持ちで身体を撫でた。時間が作りたかったのは本当だ。一緒に過ごす時間をまとめてとりたかった。ちゃんと、好きだから。そう言うと、腕の中でなだらかな背中が震えた。
 しってますよそんなこと。答えるゼクシオンの声は、少しだけ涙声だった。

 

*喧嘩話は正直苦手ですねえどっちかを悪者にしたいわけじゃないんだけどうまく書けない。
二人は喧嘩もするだろうけど泣いたりしなさそうだしお題には全然添えてません。


今日の116
喧嘩をした勢いで嫌いだと散々言ってしまった。向こうが部屋に篭ってしまったので謝ろうとドアを開けると涙目で思い切り睨まれた。慌てて謝ると抱き着いてきて「好きって言ってくれたら許す」と小さく呟く。ごめん、大好きだよ。