013 カラオケに行く

 不意にスマートホンが鳴ったのでそのついでにと時計を見た瞬間、ゼクシオンは思わず『あ』と声を漏らした。手に持っていたグラスを、思わずごとりとテーブルに置いてしまう。乗るべき終電にはどうあがいても間に合わない時刻であることが無情にもそこに示されていたのだ。
 テーブルをはさんだ向かいに座っていたマールーシャもその様子を見て、はっとした様子で腕時計を覗き込んだ。

「もうこんな時間だったのか。すまない、全然時間を見ていなくて」
「いえ、僕の方こそ話に夢中で」

 ゼクシオンはそういいながら、時間を忘れるほどに話し込んでいた自分に驚いていた。
 マールーシャとは本の趣味が合うとわかるとすぐに意気投合した。本の貸し借りが始まると、そのうち評論めいたお互いの考えを話し合う時間などが増えていった。お茶を飲みながら、食事をしながら、やがて待ち合わせて出掛けたりもするようにもなって、この日もその延長線上で夕食を共にした後、話が尽きないまま二軒目へと足を運んでいたその席での出来事だった。

 相手にも申し訳ないことをしたと思ったが、幸いにも二人そろって翌日は休日だったため、協議の結果カラオケで一夜明かすという学生同士のような提案をマールーシャは快く受け入れてくれた。
 居酒屋での支払いを済ませて近くのカラオケに向かうと、週末でにぎわっていたものの、早めに動き出したことが功を奏してすぐ部屋に通してもらうことができた。居酒屋の閉店までのらりくらりと過ごしていたら、同じような人間でもう満室となっていたことだろう。雨風をしのげるだけでも感謝すべきだが、少し煙草の匂いの残るその部屋は一夜明かすにはちょっと……と思いつつも、思わぬ形で降って湧いた二人の時間がゼクシオンは少し嬉しかった。時間を忘れて帰りがたいほどに、マールーシャといる時間はどこか居心地がよかった。いつしか友愛とも憧憬とも違う感情を彼に対して抱きかけている自分がいたが、ゼクシオンはまだその感情には触れないように胸の奥底にしまい込んでいた。本の話ができて、たまの時間を一緒に過ごすことができるこの距離感が、今はちょうどよかった。
 個室に入り荷物を置くと、マールーシャはさっそくとばかりに部屋に備え付けてあったタブレットを手に取った。まだ何か飲むのだろうか、と思うがよく見ると曲を選んでいる。

「え、歌うんですか」
「え、歌わないのか」

 お互いまさかといわんばかりの目で相手を見た。確かに此処はカラオケボックスだから歌うのが道理と言えばもちろんそうなのだが。

「歌うぞ、もちろん」

 マールーシャはそう言ってタブレットをすいすい操作した。酒も飲んでいい気分なのかもしれない。彼の歌が聞けるのは儲けものだな、とゼクシオンも少しわくわくしながら向かいの椅子に座った。

「何か曲を入れるか?」
「僕はいいです」
「一緒に何か歌おう」
「聞いてました?」
「何がいい」

 まるで会話にならなかった。マールーシャが楽しそうに画面にくぎ付けなので、ゼクシオンは諦めて「お好きにどうぞ」と答えた。男声デュエットの一覧を眺めていたマールーシャは、時間をかけてようやくどれかに絞ると、タブレットを操作してリクエストを送信した。画面に表示された曲は今尚活動しているアーティストのわりと昔に大ヒットした曲で、ゼクシオンもよく知っているものだった。……のはいいけれど。

(ラブソングじゃん……)

 選曲に深い意図なんかないのだろうけれど、愛、だとか好き、だとかの歌詞を彼と歌うのはなんだか気恥ずかしかった。マイクを渡されてイントロが流れると余計に緊張したが、マールーシャはといえばなにも気にしていない様子で、もう最初のパートを歌う気満々だ。
 そうして彼が歌いだすと、話すときのトーンとはまた違った声域で部屋に響く声が鼓膜を震わせて、力強くも伸びやかな声にゼクシオンは瞬時に魅了されてしまった。音程も安定していて、音を伸ばすとビブラートが耳に心地よく響く。予想はしていたけれど、歌もうまいのかこの人は。
 思わず聞き惚れてぼうっとしていると、いつのまにか自分のパートに突入していたらしく、マールーシャがマイクを掴んだまま「おい、真面目にやれ」などと野次を飛ばすので、慌ててゼクシオンもマイクを握り直した。歌詞は恥ずかしいし、上手い人の後に歌うのもなんだか気後れして、自分のパートは有耶無耶に終わらせた。後半からはマールーシャがパートに関係なく歌い通していたのでゼクシオンはマイクを置いて聴きに徹した。

「九十点はかたい」

 採点はつけていなかったが、歌い終わるとマールーシャはやり切った顔でマイクを置いてひとり頷いた。

「お前ちゃんと歌っていたか? 全然聞こえなかったぞ」
「え? ええ、まあ、それなりに」

 いつのまにか何やら顔が熱くて、火照る顔を手ではたはたと仰いだ。知らない彼の一面を目の当たりにして、興奮しているのかもしれない。いろいろな感情がぐるぐると頭の中で渦巻いて、まだ少し混乱していた。
 始発までの四時間余り、長い夜になりそうだとゼクシオンは考える。

 


今日の116
カラオケに行く。一緒に何か歌おうというから曲を任せたらラブソングを入れられた。恥ずかしいやら相手の歌が上手くて聞き惚れるやらで混乱した。