114 「 券」と書かれた紙をくれた
ソファの上でくつろいでいたゼクシオンは本にしおりを挟むとそっと背後を振り返った。休日ではあったがマールーシャは自宅で書類をわきに積み上げて画面に向かっている。繁忙期はこうして持ち帰りの仕事が休日に食い込むことがままあった。書類片手に真剣な横顔を見て、まだしばらくは静かにしていた方がよさそうだ、と見当をつける。
付き合いが長くなってきて、最近ではゼクシオンはほとんどの時間をこの彼の家で過ごしている。ほぼ同棲しているかのようだけれど、正式な申し出を交わしているわけではなく、長期休暇の名残でなんとなく帰るのを渋ったり引き止められたりしているうちに、だんだんと自分の私物が増えていき、当たり前のように食器が二組になっていき、そうして居着いてしまったのが実際のところだ。初めは他者との生活が久しぶりで距離感をはかりかねていたけれど、今では全く気の置けない生活となっていた。仕事の邪魔にならないように静かに過ごしたり、家事を手伝ったり、自分以外に合わせて時間や労力を割くことに苦を感じない。一人の生活が気楽だとずっと思って生きてきたけれど、家に自分以外の誰かがいて生活を共にするということは(そしてそれが血を分けた家族以外の人物であることは)存外悪くないものだと最近になって思う。……相手によるものだろうか。もう一度、彼の横顔に視線を送る。何年見ていても飽きないと思う。気持ちが変わらぬままであること再確認してしまい、勝手に恥ずかしくなって目を背けた。
ほどなくしてマールーシャは深く息をつきながら書類を近くに放った。伸びをしてから休憩しようかな、と言うので、ティータイムの支度にとりかかるべくゼクシオンは本を置いて立ち上がった。いつもは彼が率先してキッチンに立つのだが、こんな日くらいは自分も役に立ちたい。
水を汲んだ小鍋を火にかけながらカウンター越しに覗き見れば、マールーシャ疲れたように首を回したり、手で肩を揉んだりしている。
「肩、凝るんですか」
「椅子が悪いんだろうな」
カウンター越しにマールーシャはそう言ってばつが悪そうに笑いながらダイニングチェアを指した。彼の家は広いとは言え一人暮らしなので部屋数は少ない。寝室に仕事は持ち込みたくないらしく、ダイニングテーブルとその椅子で仕事をしている。身体が痛くなるのも無理なかろう。姿勢も悪くなるし仕事用に新しく購入を検討した方がいいかもしれない、と話すので、ひとまず椅子の購入には賛成しておいた。
湯気の立つマグカップをふたつ運び、マールーシャの前に置いた。ベルガモットの香りが広がる。ありがとう、と言ってマールーシャが仕事道具を片付け始めた。
ふと思い立ってゼクシオンはマールーシャの後ろに回り込んだ。いつも自由に跳ねている癖の強い髪の毛は、自宅だからか緩くまとめて縛られている。しっかりとした肩のラインにそっと手を乗せた。優しく力を込めるが、素人目にも分かるほど凝り固まっていてかたい。
「肩でも揉んでくれるのか」
マールーシャが笑う。その声色からリラックスした雰囲気を感じたので、そのまましばらく解すことに努めた。
「これ相当ひどいんじゃないですか……整体とかいったらどうです」
「そうだなあ」
首を項垂れてされるがままの彼は生返事をした。これはいかないな、と分かる。
「自宅で事足りそうだ」
「お金、取りましょうか」
「肩たたき券を発行してくれ」
「そんなものないですよ。……はい、おしまい」
軽く笑いながらぽんと肩を叩くと、席に戻ってカップを手に持った。他愛無い話をしながらしばらくティータイムを楽しんだ。明日はどこか出掛けようと話す彼の目が優しくて、こそばゆい気持ちになる。
カップが空になると、再びマールーシャが仕事に取り掛かろうとするのでゼクシオンは使った食器を洗っていた。
ふと気配を背後に感じる。振り返るまえに伸びてきた腕に囚われていた。
「ちょっと、水出しっぱなし」
「こっちの方が疲れが取れそうだ」
マールーシャはそう言ってリラックスしたように肩に頭を落とす。手が泡まみれで抵抗できないのをいいことに、そのまましっかりと抱きすくめられてしまった。
「ハグする券を発行願いたい」
「そんなの」
ゼクシオンは少し照れて笑いながら、濡れた手の代わりに身体を抱く腕に頬を寄せる。
そんなの、券がなくたって大歓迎だ。
*お題は曲解しています
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今日の116
「 券」と書かれた紙をくれたので「ハグする券」にして渡したら券がなくてもしてくれるらしい。このあとめちゃくちゃ抱き締めた。