116 満員電車に乗る
こうも寒くなると朝は布団から抜け出しがたくてかなわない。元来早起きに苦労しない性分なので、さっさと起きだして着替えて胃に何か入れた方が温まることはわかっている。
けれど、この日は違う。
窓硝子から伝わるきりりと冷えた外の空気を首筋に感じ、ゼクシオンは冷気から逃れるように布団を引っ張り上げてその中に身を沈めた。さむいから、と眠い頭で言い訳をしながら、すぐ隣りの熱源に躊躇いなく身を押しつける。隙間なくぴたりと触れていると、服越しでも十分に相手の体温を得ることができた。すり寄せた頬が冷たかったからか相手は少し身じろぎをしたが、構わずに鼻先まで押しつける。あたたかくて、いい匂いがして、ずっとこうしていたいような、甘やかな時間に身を浸していくうちに、瞼はとろりと重たくなる。隣りの山が大きく動いて、その手が自分の背にまわる。熱を送るように優しく撫でられなどしてしまったら――こんなの不可抗力だ――もうそのまま凭れるように意識を手放すほかない。
そうして次に目を覚ました時は、起きるべく時間を大幅に過ぎていたのであった。
「なんであの時起こしてくれなかったんですか」
「寝直すんだとばかり思った」
「今日一限からだから早いって、昨日話しましたよね」
「寒そうにしていたから、つい」
ばたばたとゼクシオンが出掛ける支度をしているのを眺めながら、すでにすっかり着替えているマールーシャはのんびりと答えた。眠りこけていたところを遅刻しないぎりぎりの時間で起こしてくれたのは彼の方だというのに、理性は彼方、欲に完敗した自分が情けなく、八つ当たりのような言い種になってしまった。マールーシャは特段気にしてもいない様子で、滅多に寝坊をしないゼクシオンの慌てぶりをむしろ面白そうに見守っていた。
「一限の授業にこんなに早く出る必要があるのか? まだ一時間以上もある」
「通勤ラッシュを避けたかったんですよ……今日はもう無理でしょうね」
諦めたように言いながら腕時計を付けてから、ゼクシオンは鞄のポケットを探ってキーホルダーを探し当てる。引っ張り出した先に銀色が鈍く光った。
「すみませんけど先に出ますので、これ。使ったらポストに入れておいてください」
そう言ってゼクシオンはこの部屋の鍵をマールーシャに差し出した。今回は珍しくマールーシャがゼクシオンの部屋に泊まりにきていた。彼も朝から大学の付近で予定があるような話だったのでそれならばと了承したのだが、やっぱり早朝予定がある日に恋人を部屋に泊めるのは今後自重した方がいいのかもしれない。朝も然り、多方面からの誘惑に冷静でいられるはずがないのである。
「私も一緒に出よう」
なんてことなさそうにマールーシャはそう言うと、すっと立ち上がって掛けてあったコートに手を伸ばした。ふわりと翻して袖を通し、流れるような所作でベルトを締めると、もうすぐにでも出掛けられそうな姿だった。スマートな身のこなしを目の当たりにして、つい今しがたまで右往左往していた自分との差にゼクシオンは複雑な表情を浮かべざるを得ない。
人混みを好まないゼクシオンは普段は混雑する時間帯を避けて駅を利用するよう心掛けている。朝早く授業のある日は特に通勤ラッシュにぶつかるので意識して早く家を出るのが常であったが、例によって今日は朝起きれなかったため、既にホームで電車を待つ間から人の波に揉まれる羽目になった。
車両に押し込まれていた乗客たちが吐き出されるようにして排出されると、今度は自分たちが雪崩れ込むようにしてその中へとどんどん収容されていく。貨物にでもなったかのような気分だ。無理矢理押し込めるようにして扉が閉まると、ゼクシオンはドア付近の角の位置を何とか陣取って壁に背を預けた。全方向他人に包囲されるよりいい。隣りにちゃんとマールーシャがいるのを確認して安堵する。
「こんなに混んでいるとは思わなかった」
電車が発車すると、走行音に紛れてこっそりとマールーシャが耳打ちした。彼もまた満員電車での通勤には慣れていないのだろう。ただし彼の方は背が高いから、人の壁に埋もれてしまう自分に比べるとまだなんとかやり過ごせているようだ。
「掴まった方がいいですよ、結構揺れますから」
ゼクシオンも小声でそう言いながら手すりに掴まった。この先はカーブが多くてよく揺れる。
人の多さも相まって、満員電車では具合が悪くなりがちだ。知らない人間らに囲まれて潰されるようにしながら電車に揺られるのは苦痛以外の何物でもない。けれど、今日はよく知った人物がすぐ近くにいるおかげかいくらか気分はましだった。
事実それだけではなく、彼が盾になってくれているおかげで今日は他者からの圧迫を身に受けずに済んでいるようだ。マールーシャはいつの間にか向かい合うようにして立っていて、車内が揺れるたびに起こる人の動きをその背で遮断してくれている。ありがたいなあとぼんやりと相手を見上げた。何でもないような表情をしているが、この不安定に揺れる車内でも微動だにしない安定感がある。頼もしいことである。
彼の付けている香水の匂いをほのかに感じて、外にいるにしては近いと今更ながらにして気付いた。太く白い首筋が目の前にあるのに気付くとなんとなく目のやり場に困り、相手から視線を逸らす。
電車に揺られながらふとマールーシャが呟いた。「これは中々、厄介だな」
黙ったままゼクシオンも頷く。これも不可抗力なのだから仕方ない。
「毎日こんなのに乗っているのか」
乗車時と同様、貨物よろしく駅のホームに叩き出された二人は、改札口へ向かう人の波が落ち着くのをベンチで腰掛けながら待っていた。結局熱気にあてられて気分のすぐれないゼクシオンは販売機で買った水に口を付けながら渋い顔で答える。
「ですから、普段はもう少し早くに家を出るんですけど」
「起きれない日があるのは悪いことではない。それよりも引っ越した方がいいと思う」
「そんな大袈裟な」
笑って軽く一蹴するが、マールーシャは真面目だったようで不服げだ。
「……うちからなら近いし、電車もこんなに混まない」
「確かに。羨ましいですよ」
隣の駅にあるマールーシャの自宅を脳内で思い描きながらゼクシオンは飲んでいた水を飲みほして立ち上がった。
「さて、お待たせしてすみません。行きましょうか」
外の空気を吸ったら気分も晴れたし、彼が自分のことを案じてくれているのが少し嬉しい。現金な性格だ、と思う。
先導して歩いていると、背後からはまだ『本当に厄介だ』とため息混じりに呟く声が聞こえる。
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今日の116
満員電車に乗る。押し潰されそうなのを腕で囲って守ってくれる。これは壁ドンてやつ?ああ!押さないで!顔が近い!