019 雨に降られる

 ぼつりと大粒の雨が鼻先に当たった。予報では夜までもつと言っていたのに、なんて話しているうちに笑っていられないほどの大雨になった。あそこまで走ろうと指さすのは、古いバス停。かろうじて屋根はあるが、ぼろぼろ。駆け込んだと思ったら、周りの景色が見えなくなるくらいの大雨に発展した。
 木造のその停留所は異様に古く、傷んだ木の屋根のそこかしこから雨漏りがしていた。突風でも吹こうものなら小屋諸共飛ばされてしまうかもしれない、なんてマールーシャが考えている間に、ゼクシオンは軒下から身を乗り出して空を見上げた。

「真っ暗になっちゃいましたね。夕立でしょうか」
「おい、屋根の下にいろ」

 ぽたぽたと雨を受けているゼクシオンの腕を掴んで中に引き込んだ。細い腕だ。はたと気付いてマールーシャはすぐに手を離した。お互いすっかりずぶ濡れだった。髪の毛がぺたんと顔に張り付いてしまっている。
 張り付いているのは髪の毛だけではない。ゼクシオンの着ている夏用の薄いシャツがぴったりと肌に張りついていた。肌の色が透けて見えるほどに。
 なんだかいたたまれない気分になってマールーシャは自分の上着を脱ぐと雑にゼクシオンに羽織らせた。

「わっ、なんですか」
「着ておけ」
「え、でも」
「いいから」

 すみません、と呟いてゼクシオンは肩に羽織り、前を合わせた。自分の上着も濡れているので申し訳ない気持ちではあるが、華奢な体が覆われて見えなくなったのでマールーシャは少し安心した。気温は蒸し暑いが、いつまでもこのままでいるのは得策ではない。濡れた体が冷えてしまわないうちに止むといいのだが。

 

 

「雨、止みませんね」

 ぼんやりと外を見ながら二人は依然として並んで雨宿りをしていた。止まない雨に流れてしまいそうな景色。雨の音以外何も聞こえない。停留所の前を通りがかるものも誰ひとりとしておらず、この世界にまるで二人だけ取り残されてしまったかのような不思議な感覚を覚えた。

「バスが来たら乗ってしまいましょうか」

 不意に、ゼクシオンが呟いた。

「来ないだろう」

 停留所の形を成していたが、使われていないのは一目瞭然だった。時刻表はすっかり色褪せて、時刻はおろか行き先すら読めない。

「知らないところまで、二人で」

 聞いていないようで、ゼクシオンは囁くように呟いた。マールーシャは返事ができなかった。
 手を取るならいまだ、となぜかその時急に思った。寒くなってきたのか、ゼクシオンは両手を合わせてさすっている。寒そうだったから、なんて、言い訳など簡単にできる気がした。手を伸ばせばすぐ届く場所にゼクシオンがいるのだ。マールーシャは悟られないように深呼吸した。無意識に指先に力が入る。

「あ」

 急にゼクシオンが声をあげるからすんでのところでマールーシャは身体が跳ねそうになるのを何とか耐えた。

「向こうのほう晴れてる」

 指差した先を見ると、雲の切れ間から日が差していた。その明るい声色にマールーシャは、ああ、と煮え切らない思いで返事をしながら、伸ばしかけた手をそのままポケットに突っ込んだ。
 突然降りだしたときと同じように、程なくして大雨など嘘だったようにあたりは晴れ渡った。

「やっぱり夕立でしたね」

 そう言いながらゼクシオンは路面に踏み出した。道端の水溜りに青い空と白い雲が写っていた。

「ひどい目にあったな」

 とマールーシャも隣に並ぶ。服は濡れ、靴の中まで水浸しだった。お茶でもしていこうかと話していたが、こんな身なりでは直帰するほかなさそうだ。

「カフェはまた今度ですね」

 同じことを考えていたのかゼクシオンがいう。残念だけれど致し方ない。

「上着も、今度返すのでもいいですか」

 そう言いながらゼクシオンは肩に羽織ったままの上着を大事そうに撫でた。

「いつでも構わない」

 とマールーシャが言うと、そう遅くならないうちにお返ししますから、とゼクシオンは笑った。
 ポケットの中の手を握り締めたまま、雨上がりの道を並んで歩いた。

 


今日の116
雨に降られる。途中のバス停で雨宿り。夕立かな、と空を見上げるその人のシャツが肌に張り付いて透けている。目に毒だから、上着着てて。