022 相手の睫毛になにか付いている

 マールーシャがロビーを通りがかると、ゼクシオンがソファにかけて本を読んでいるのがみえた。こちらに背を向けているが、明るい光の下ではまるで銀色のように輝くそれを見間違えるはずはない。後ろから近づいて、肩越しに本を覗き込んだ。小さな文字がぎっしりと並んだそれを一緒に読むつもりは毛頭なかったが、ただ同じ目線で同じものを見たいと思ったのだ。

「……何か御用ですか」

 本に目線を落としたままゼクシオンが声を出した。

「珍しく暇そうじゃないか」
「暇なものですか。これが目に入らないんですか」

 呆れたようにゼクシオンは本を少し持ち上げて見せる。が、果たしてどうだろうか。読書に没頭したいときに、わざわざこんな人通りの多いところで本を開くとは思い難い。指摘したら不愉快そうな顔をするのだろう、と思い、マールーシャは反論せずにまた本の中に視線を落とすゼクシオンを眺めることにした。活字を追うのに目が上下に動くのをじっと見つめる。

(……あ)

 睫毛が長いな、と眺めていたら、その毛先に何かがついているように見えた。埃か何かだろうか。ぱちぱちと瞬くたびに一緒に動くそれは、目に入ってしまう前に取り除いた方がいい気がした。

「ゼクシオン」
「なんです」

 返事をするものの、ゼクシオンはこちらを見ようとしない。少し焦れる気持ちでマールーシャは手を伸ばすと、

「こっちを向かないか」

 その顔に触れ、やや強引に自分の方を向かせた。青い瞳とそれを縁取る長い睫毛がよく見える。ああ、やはり何かついているようだ。さっさと排除してしまおう、と指を伸ばしかける。が、その睫毛の下で動揺に揺れる瞳がこちらを見つめているのにマールーシャは今更ながら気付いた。突然息のかかるほど近距離で見つめ合っている事態を彼はまだ飲み込み切れていないのか、驚いた表情で息を詰めてこちらを見返していた。

 これは、やってしまったな、とマールーシャは腹を括る。数秒後には『場所もわきまえずに何を!』と烈火のごとく怒りだすに違いなかった。こんな状況で、目にゴミが入りそうだったから、などと言い訳じみた説明をして相手が納得するとは到底思えない。

「あ……」

 ゼクシオンが何か言いかけたのでマールーシャも思わず身構えた。飛んでくる怒号に備えたつもりだった。

 ところが、ゼクシオンは怒鳴らなかった。
 言いかけた言葉を飲み込むようにぐっと口元を締めたかと思うと、同じようにそのままぎゅうと目を閉じたのだ。えっ、とすんでのところで声を上げそうになる。静まり返ってしまったロビーで、マールーシャの手はまだゼクシオンの顔に添えられたままだ。身を乗り出せば触れてしまいそうな距離で、この状況下で、目を閉じるその意味は。

 躊躇したのは、ほんの一瞬だった。標的にはほんの少し身を乗り出すだけで簡単に届いた。本当に軽く、触れるだけのキスをしてマールーシャは身を離した。ゼクシオンもすぐに目を開けると、きまずそうに少し目線を外す。今度こそ怒られるだろうか、とマールーシャがはらはらしながら次の展開を待っていると、ぱたんと本を閉じてゼクシオンは立ち上がった。

「……場所くらいわきまえたらどうですか」
「あ、ああ、そうだな……すまなかった」
「こんなところで手を出すくらい飢えておいでですか?」

 呆れたような声を出しながらも、見ればその顔はほんのりと上気して、髪の毛から覗く耳の先は少し赤い。茫然としたままのマールーシャを一瞥してから、ゼクシオンはふいと視線を外して小さな声で言うのだった。

 

「……いいですよ、今夜」

 

 睫毛に付いていた何某のことなど、もはや頭の片隅にも残っていなかった。

 

*据え膳食わぬはなんとやら


今日の116
相手の睫毛になにか付いているように見えたのでよく見ようと顔を近づけたら、どぎまぎしながら目を閉じられた。え、キスしていいってこと?