033 エレベーターに乗る

『19時には帰ります』

 そう連絡をもらったから自分の方が先に家につくだろうと思っていたのに、電車が遅れて予定していた時間を少し上回ってしまった。先に帰って、風呂なり食事なりの支度を整えながら帰ってくる相手を出迎えたいと思っていたのに、と考えながらマールーシャは自宅マンションまでの道のりを少し足早に歩いていた。
 エントランスに入り込むと、鞄を開けてキーケースを探し当てる。ちゃりちゃりと音を立てる複数の鍵の中から、ええと自宅の鍵は、と見定めていたその時、エントランスの外扉が開いて誰かが駆け込んできた。咄嗟に顔を上げて挨拶をしようとするが、入ってきた相手がほかでもないゼクシオンだったのでマールーシャは面食らった。ぱちりと目が合うと、相手も驚いたように小さくあれっと声を上げながら目を見開いてマールーシャを見返した。

「お、おかえり」

 動転しながらもマールーシャが声をかけると、ゼクシオンも予想外の展開に呆気に取られている様子だったが、何とか絞り出すように「た、ただいま……?」とあやふやな返事をした。

「えっと……おかえりなさい」

 そうして少し落ち着きを取り戻したゼクシオンが遠慮がちにその言葉を紡ぐので、

「……ただいま」

 マールーシャも少しはにかんだように微笑み返すのだった。

 

「走ってきたのか」

 エレベーターに乗り込みながらマールーシャはまだ呼吸を落ち着けようとしているゼクシオンを見下ろした。

「十九時に帰ると伝えたのに、電車が遅れてしまったから」
「同じ電車だったのかもな」
「貴方こそ、少し息上がってませんでした?」
「さあ、忘れた」

 くだらないやり取りをしながらエレベーターが行き先階に到着するまでのわずかな時間、小さな個室の中で二人は並んで立っていた。頭一つ分小さいゼクシオンの細い髪の毛がさらさらと流れるのを見ているうちに、不意にマールーシャは身を屈めてその輝く銀糸にそっと口付けた。触れるか触れないかのさりげないキス。さっと身を引いた後、ゼクシオンは振り返って「何かしました?」とこちらを見上げた。

「何も」

 肩をすくめてみせるが、ゼクシオンは訝しげだ。
 ごうんと減速してエレベーターは目的階に到着した。ゼクシオンに続いてエレベーターを後にしながら、どうにも浮かれているな、とマールーシャは内心自分に呆れていた。彼と同じ部屋に帰宅する生活は、まだ始まったばかりだった。
 ふと庫内に防犯カメラがあるのに気付いてしまい、外で調子に乗るのはよそうと自分の中で決めた。

 

*一緒に暮らし始めて間もない頃


今日の116
エレベーターに乗る。誰もいなかったのでキスしてたら急に止まったので慌てて離れる。あ、待って、防犯カメラにばっちり映ってたかも……!?