049 記憶喪失になる3

「週末、退院します」

 この日、珍しくゆとりをもって面会時間にやってきたマールーシャにゼクシオンはそう告げた。まだベッドの上にいたが、布団からは出てちゃんと服を着て腰掛けていた。
 医師との面談で退院日が決まったのだ。依然として記憶は曖昧なままだが、身体に負った傷はほぼ完治していた。わからないことが多いまま元の生活に戻ることへの不安も大きいが、日常生活に触れることで思い出せることがあるかもしれないと医師と相談して決断に踏み切った。
 そうか、と頷くマールーシャが落ち着いた様子なのは、すでに医師から説明があったからだろう。変わらず頻繁に足を運んでくれていた彼とは、本のやり取りを通して少しずつ打ち解けてきたように思う。

「長かったな」
「ええ、本当に」

 検査やリハビリなど非日常的なことばかり続いて、知らない人が日々訪れては気を病んだり。一日はあっという間に過ぎる感覚もあったが、それでも不透明な今後を思うと流れる日々は長く感じた。マールーシャがそれを理解してくれていることがまた嬉しくて、じんと胸が温かくなる。
 先行きの見えない日々の中でも、夜になり一人で本を読む時は心休まる時間だった。そして、それをもたらしてくれる人のことを考える時もまた温かい気持ちになれた。親しく言葉を交わすわけでなくとも、彼が来ると無意識に嬉しくて、いないときはぼんやりと考えてばかり。この気持ちはまるで……。

 珍しくマールーシャはベッドの横の椅子に座っていた。話すことがあるからだろう。その内容はおおよそ予測できたけれど、ゼクシオンは自分から切り出すことにした。

「先生から聞いたんですけど、僕と貴方は一緒に住んでいるんですね」

 医師と退院後の話をしている時に、その事実を教えられた。頻繁に面会しているのに知らされていないことに医師は驚いていたが、彼のことを改めて少し教えてもらった。名前、居住、都内で働いていて、自分とはルームメイトだということ。病状は逐一彼にも報告されていたようだ。医師の目には“保護者”として認識されている様子だったが、ゼクシオンは二人の関係性にうすうす気が付き始めている。

「ごめんなさい、大切な人に向かって最初、あんなことを言って」

 目が覚めた最初の時のことを思い出すと罪悪感に苛まれる。真っ先に駆けつけて自分の身を案じてくれた人に向かって、混乱していた自分は『誰ですか』などと言ってしまったのだ。傷ついたように見開かれた瞳が忘れられなかった。握られた手に力が込められたのはほんの一瞬。力なく滑り落ちたあと目を伏せて強く拳を握る彼の姿が、優しい人を傷つけてしまったことが、どうしようもなく悲しかった。

「当然の反応だろう。まだ意識が混濁していただろうに、私の方こそ軽率にすまなかった」

 あの日の動揺など微塵も感じさせない落ち着いた振る舞いでマールーシャは言った。それをどこか『壁』に感じてしまい、ゼクシオンは少し寂しく思う。なりふり構わず自分のことを気に掛けてくれた彼は幻想だったかのようで。
 マールーシャは続けた。

「一緒に住んでいるのは事実だ。だがお前が生活に慣れるまでは私は家を出てもいい」
「えっ、どうして」

 追い打ちをかけるような提案にゼクシオンは自分でもわかるくらい悲愴な声をあげた。やっと、彼のことがもっとわかると思ったのに。
 マールーシャも予想外だったのか、その反応に目を瞬かせた。

「どうしてって……よく知りもしない相手といきなり一緒に生活を共にするのはつらくないか」
「そんなこと……」

 ゼクシオンは言い淀んだ。自分を気遣ってくれているのだろう。もしかしたら、記憶のない自分といることが彼自身辛いのかもしれない。それでも、まだほとんど何も思いだしていないのに、彼と一緒にいたいという気持ちだけが自分の中で戸惑いと反して膨れ上がっている。
 すっと息を吸ってから、膝の上で握りしめた拳を見つめながら、ひとつひとつ言葉を紡いだ。

「貴方と一緒に住んでると聞いたとき、腑に落ちたというか、すごく安心しました。前は退院するのが不安だったけど、今は待ち遠しいと思っています。貴方にも迷惑をかけるでしょうし、不安だと思うけど、僕は――」

 清水の舞台から飛び降りるような気持ちでゼクシオンは本心を語る。

「貴方がいる生活に戻りたい」

 これではまるで告白みたいだ。声が震えていたかもしれない。顔が熱い。
 おそるおそる見上げると、マールーシャの目に浮かぶ表情は、泣きそうにも見えた。
 もし――もしも僕が彼の恋人ならば、手を伸ばして抱きしめたい。衝動的にそんな考えが脳裏をよぎった。

「退院祝いに、何が食べたいか考えておいてくれ」

 さりげなく目線を落として鼻をすすってからマールーシャは真っ直ぐにゼクシオンを見た。

「迎えに来るから」

 自分に向けられた優しい眼差しに全身が温かくなってゼクシオンも自然と笑みがこぼれた。
 やっと、心から笑えた気がした。

 


今日の116
記憶喪失になる。現実感がない。「誰ですか」と問うと、目の前にいたその人が手を強く握り締める。ああ、ごめん、泣かないで。