055 スケートに行く

 マールーシャと来る雪国でのワールド調査の任務は二回目になる。
 前回の調査報告から上には有用なワールドと判断されたらしく、再度調査域を拡大して任務にあたることとなっていた。
 しんと冷え込んだ一面真っ白な世界で、広大な湖を前にしてゼクシオンは吐く息を震わせた。白く立ち上り消えていく吐息とすれ違うように、ちらちらと舞い降りてくる粉雪が幻想的と言えよう。しかしそんなことはどうでもいい。感傷に浸る心などないし、ゼクシオンは一刻も早く帰りたかった。なぜなら、寒いから。

「前回も思ったが、美しい世界だ」

 対照的にマールーシャは寒さなど感じていない様子で眼前に広がる冷たく透き通る情景にため息をついた。つられるようにして目の前に広がる景色をゼクシオンも睨みつけた。凍った湖が広がる。でっかい水溜りが凍っているだけで何故この男はそんな感想を抱くのだろうか。同じノーバディのはずなのに、彼は自分とはノーバディたる感性が随分と違うようだ。時としてとても人間らしく振舞うそれは、果たして本当に演技なのかと疑わしくなるほど自然な身のこなしだ。過去の人間だった時の記憶を色濃く持っているのだろうか。ゼクシオンは考えを巡らせる。

「何か難しいことを考えている顔をしているな」

 マールーシャはそう言いながらゼクシオンを覗き込んだ。ゼクシオンは肩をすくめて視線を外す。

「別に。寒いから早く帰りたいと思っていただけです」
「今回はやけに素直だな」
「雪玉なんて投げられたらたまったもんじゃないですから」

 牽制と言うことか、とマールーシャは笑った。ほらまたそうやって、“楽しそうな”表情。

「ところで、今日の任務はどこが終着点なんだ」
「……森の探索を一通りしたかったのですが」

 ゼクシオンはそう言いながらため息をついてまた眼前の湖に視線を戻す。広く続く雪に覆われた森の先を行くには、この湖を越えなくてはならない。広大なあまり、迂回するには少し時間がかかりそうだ。

「この湖をどうしたものかと考えていたところです」
「何を悩むことがあるというのだ」

 意外そうにマールーシャが首をかしげるのでゼクシオンは驚いて顔を上げた。彼は時として頭の回転が速いところがある。

「歩いて渡ればいい」

 短絡的な回答にゼクシオンは呆気にとられた。マールーシャは構わずにかがみこんで水際の様子を観察している。

「まっすぐ行けば早いし、見たところしっかり凍っているようだ」
「単細胞……」
「何か言ったか」
「いえ、仰る通りかと」

 棒読みで返事をするゼクシオンに構わずマールーシャは立ちあがるとずんずんと進んでいき、そのまま氷の上に降り立った。みし、と氷が鳴るのでゼクシオンは思わず身構える。繊細な薄氷が二メートル近くもある大男の図体に耐えられるのかとハラハラしていたが、彼の言った通り案外しっかりと凍り付いているようだ。マールーシャはそのまま数歩進んでから振り返ってこちらを見た。まっすぐ安定して立っている。

「ほら、問題ない。お前も来い」

 氷の強度が心配だったが、彼があれだけ普通ならば大丈夫なのだろう。魔力を使わなくて済むのならばそれに越したことはない。平然としているマールーシャをみてゼクシオンも少し気を緩めて氷の上に足を踏みだした。 ――が。

「うわ!?」

 氷に載せた足に体重をかけた途端、絵に描いたようにゼクシオンは足を滑らせた。身体が空を仰いでしまいそうになるのを、なんとか足に力を込めてギリギリのところで踏みとどまるも、踏みしめた足は氷の表面に負けてずるずると滑ってしまう。

「だ、大丈夫か」
 生まれたての小鹿よろしく足を震わせながらなんとか膝をつくまいと踏ん張るゼクシオンの姿にマールーシャは心配そうに声をかけた。

「は、話しかけないでください……っ」
「力みすぎだ、力を抜いてみろ」
「うるさいっ!!」

 決死の形相にマールーシャは内心笑いを堪えるのに必死だが、策士はいたって真剣だ。なんとか体勢をまっすぐに立て直すことができたものの、次の一歩が踏み出せない。油断するとまた足ががくがくしてしまいそうだった。

「なんで貴方そんな余裕なんですか……!」
「体幹を鍛えていればこれくらい造作もない。日頃の鍛錬が物を言うな? 策士殿よ」
「ぐっ……!!」

 怒り心頭でゼクシオンはなんとか体を起こしてマールーシャを睨みつけると、這いずるようにして足を前に踏み出す。上から真下に体重をかければ前に足が滑ってしまうことはない。頭を使えば大抵のことはどうにかなるものだ。
 落ち着きを取り戻しながらしずしずと一歩ずつ進んでいくのをマールーシャは愉快そうに見守っている。向こう岸に着いたら覚えておけとゼクシオンは睨みつける、が、その瞬間油断が勝って再び足がずるりと前に滑った。

「わぁ!!」
「おっと」

 間の抜けた声が喉から飛び出ると、ゼクシオンは前のめりに倒れ込んだ。一瞬体が浮いた時は肝が冷えたが、冷たい氷に打ちつけられる前にマールーシャがその身体を抱きとめた。

「大胆なことだな」

 情けないことに相手の胸に飛び込んでしまったが、支えを得ることができてゼクシオンはやっと人心地ついた気持ちで安堵の息をついた。こんな調子では日が暮れて日が昇っても向こう岸にたどり着ける気がしない。

「すみませんが僕には無理です……ほかに手を考えましょう」
「ここまできたらもう大丈夫だ。私に捕まっていればいい」

 すでに満身創痍のゼクシオンの背中をさすると、自分の腕に捕まらせてマールーシャはすいすいと進み始めた。急に引っ張られて声を上げそうになるが、バランスを保ってマールーシャに捕まっていると、自分は氷に足をつけて滑っているだけで楽に進むことができた。

「あ……これは楽かも」
「貸し一つな」

 前を向いたままマールーシャはそう言って尚進んだ。
 いつのまにか火照って熱くなった頬を、澄んだ冷たい空気が撫でるのが気持ちよかった。
 余裕が出てくると辺りを見渡すこともできた。いつのまにか粉雪は止んでいる。真白い世界に、黒いコートを纏う二人の姿はさぞ浮いていることだろう。視線を前に戻すと、桃色の癖毛が風を受けてそよいでいた。一面の白の中で黒いコートと浮かび上がるその鮮やかな桃色が織りなすコントラストを見て、ゼクシオンは自然と胸の内に湧き上がる思いを感じて戸惑った。

「さあついた」

 あっという間に対岸に渡り切ると、マールーシャは先に岸に降り立って手を差し伸べた。ばつが悪くもその手を取ってゼクシオンは切望した地の面をようやく踏みしめた。まだすこし身体がぐらぐらする気がした。

「少し休むか」
「いえ、先を急ぎましょう。余計な時間を取らせました」

 首を振ってゼクシオンは姿勢を正すと、すっかりいつもの調子で先導して道を歩いた。マールーシャも素直にそれに付き従う。
 少し進んだところで、不意にゼクシオンは歩調を緩めた。そっと後ろを振り返り、今通ってきた氷の道を眺める。

「……美しかったですね」
「え? 何か言ったか?」

 訳が分からず聞き返すマールーシャには答えなかった。
 いつのまにか粉雪がまた舞い始めていた。ちらつくそれが鼻先にあたって溶けていくと、ゼクシオンは顔をしかめてまた前に向き直って歩みを進めていった。

 


今日の116
スケートにいく。よそ見をしていて人とぶつかり転びそうになったところを抱きとめられてどきっとする。さりげなく手を引かれて焦ったけど、練習してるように見える……かな?