071 服を買いに行く
箱から取り出した秋服を手に取って、今年は何か暖かいものを買い足そうかと考えだした折、机の上のスマートフォンが振動して着信を知らせた。見れば、マールーシャからの連絡だ。すぐに手に取りスピーカーを耳に当てると、快活な声が名前を呼んだ。生まれてからずっと共にしてきた名前でも、この人に呼ばれると何か特別な響きに聞こえるから不思議だ。くすぐったいような、それでいてあたたかい気持ちになる。
電話の内容はなんてことはない、明日出掛けないか、というお誘いだった。駅前の新しいカフェは、開店当初の人気も落ち着いて今なら混雑もだいぶ緩和されたらしい、と彼は言う。フルーツをふんだんに使った季節のケーキが話題のその店は彼がずっと目を付けていたところだ。今の季節はかぼちゃのタルトが絶品らしい、モンブランはやはり鉄板で、生クリームをふんだんに使ったスイートポテトも捨てがたい、などなどとメニューを見ているのであろう、マールーシャは電話越しに楽しげに唸っていた。
つられて色鮮やかなタルトを思い浮かべながら了承の旨返事をして、ついでに自分も服が見たいのだと伝える。マールーシャも快諾した。
「一緒に選びたい」
「花柄は御免ですよ」
以前ジャケットを一緒に見繕ってもらった際、嬉々として差し出してきた上等そうな生地の裏地が一面花柄で面食らったことがあったのを思い出していた。彼ならば上手に着こなせるだろうが、自分が裾元に花などちらつかせている画は想像するだに恐ろしく、丁重に辞退させていただいた思い出だ。マールーシャも同じことを思い起こしているようで、電話の向こうでくつくつと笑いながら善処する、という。
待ち合わせ場所を決めてから、おやすみと言い合って電話を切った。
耳に残るケーキ店のメニューを反芻しながら、片付けを終えて換気をしようと窓を開ける。冷たい秋風に乗って金木犀の香りがどこからともなく淡く香った。
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今日の116
服を買いに行く。お互いの服を選んでばかりで自分の服が決まらず、結局お互いの選んだ服を買う。