072 旅行の二日目

 旅館を出て目立たない小道に入ると、裏山に続く道がひっそりと伸びていた。隠れ家に続くかのような木々鬱蒼とした散歩道を、二人並んで歩く。早朝の裏山は人も少なく、朝露の湿り気を含んだ空気はしっとりと重みがあるのにそれでいて爽やかだ。
 立ち込める森林の空気を胸いっぱい吸い込んだ。爽やかな甘い香りがそこかしこに満ちている。辺りを見渡すが、落葉ばかりで目立った花の姿はない。不思議に思いながら隣を歩く木のような人物を見上げてゼクシオンは問いかけた。

「甘い香りがしませんか」
「カツラだろうな」

 ものともせず言いながらマールーシャは足元に落ちていた葉を一枚拾い上げた。

「葉から香りがするんだ。今この季節は特に」

 彼の掲げる小さなその葉は円いハート形で、縁には波状のなめらかな鋸歯がある。見事な形をしていたので見入っていると、マールーシャはそれをゼクシオンに手渡してくれた。落ちたばかりなのか汚れもない様子なので、朝の散歩の戦利品としてそのまま持ち帰ることにした。つぶしてしまわないように気を付けながら、葉柄を注意深く摘まんでそのまま歩いて行く。

「朝は人が少なくていいですね。空気が澄んでいて、気持ちがいい」
「そうだろう、無理にでも起こして正解だった」
「こんなに早起きするならもっと早く寝るべきでした」
「本当にそう思うか?」

 そう問うマールーシャは身を乗り出してゼクシオンを覗き込むとにやりと笑う。少し意地の悪い目と目が合い、ばつが悪くなってゼクシオンは答えずに視線を外した。夜更かしを楽しんでいたのは言い逃れの出来ない事実であったからだ。
 無言のままさくさくと葉を踏み散歩道を進む。黙っていれば他に人の声もせず、冷たい朝の秋風が木立を揺らす音と足音のほかには何も聞こえない。自然に包まれ、人目を気にすることもなく二人で並ぶ距離は心持ちいつもよりも近い気もして、なるほど、旅先での早朝の散歩は確かに悪くないかもしれない、とゼクシオンはひっそりと思った。
 なだらかな坂道を歩き続けて少し息が上がり始めたころ、見晴らしの良い視界の開けた場所に出た。宿泊している旅館の周りをぐるりと取り囲むような小さな山の中腹程度まで来ていた。旅館の向こうには広大な海が見え、朝日を浴びてきらきらと光る水面が眩しい。雄大な自然のパノラマに、ゼクシオンはポケットからスマートフォンを取り出すとカメラを起動させてその景色を画面に収めた。
 写真を撮るのは好きだった。大したカメラも持っていないし、特技趣味かと言えばそういうわけでもないけれど、日常から離れた風景を目の当たりにするといつも自然にカメラを構えていた。

「被写体が必要なら承るが」
「間に合っています」

 他愛ないやり取りをしていると、すみません、と後ろから声を掛けられた。振り返ると、学生だろうか、ゼクシオンと同じくらいの年代の女性が二人並んで立っていた。手には立派な一眼レフを持っていて、二人で写真を撮りたいのでシャッターを押してもらえないだろうか、と控えめに願い出てきた。マールーシャが二つ返事で了承して手を差し伸べると、女性たちははしゃいだ様子でカメラを渡した。

 さりげなくゼクシオンは彼らから距離をとると、先に行きますね、と声を掛けて返事を待たずにまた先を進んだ。
 なんということはない。こういうことは非常によくあることだ。一緒にいても彼が女性に声を掛けられることは少なくないし、彼もまた気のいい人なので、頼まれたことは気軽に引き受ける質だ。何も悪いことではない。

 少し傾斜の急になった坂道を無心で登った。朝の木陰は涼しいと思っていたのに、いつの間にか額に汗が浮いている気がする。

 別に嫉妬なんかじゃない。ゼクシオンは誰に言うでもなく胸の中で言い訳をした。ただ、なんとなく直視したくないだけだ。

 後ろから名前を呼ばれたような気がして立ち止まって振り返る。坂の下の方で、マールーシャがこちらに向かって手を上げていた。先ほどの二人組はもう近くにはいないようで、一人だ。風に吹かれて舞う落葉の中で、彼の周りは何もかも色鮮やかに見える。
 眩しいその姿に、ゼクシオンは再びカメラを起動して画面を覗き込んだ。ファインダー越しに自分にだけ向けられるその表情を見ると、小さなわだかまりなどすぐにどうでもよくなってしまう。
 きっとこれからも、自分はこの人にずっと振り回されていくのだろう。そんなことを考えながら、揺れる桃髪の彼の姿にシャッターを切った。

 

*お題は曲解しています

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今日の116
旅行の二日目。観光地で写真を撮りまくる。近くにいた外国人にカメラを渡しツーショットを撮ってもらう。