074 寝る前にホットミルクを作ってくれた

 ここ数日、めっきり冷え込んで寒くてかなわない。
 眠れぬ夜を過ごすゼクシオンは、七回目の寝返りを打ったのちついに我慢できずに身を起こした。寒いと寝つきが悪くなるのは、昔から変わらない悩みの種である。こういう時は無理に布団の中で縮こまっていても何も解決しないものだ。

 手近なところにあったコートを掴んで乱雑に肩にかけると、厨房を目指して部屋を出た。
 暗く冷たい廊下を、脇目も振らずに真っすぐ進む。深夜皆寝静まった頃合いで、自分の足音以外には物音ひとつしない。
 目的地の手前まで来ると、ふと違和感に気付いてゼクシオンは歩く速度を緩めた。厨房の扉が薄く開いて、中からはぼんやりと明かりが漏れている。先客がいるのだろうか。
 音をたてないように静かに近付いて、扉の隙間から中をうかがった。部屋の奥に誰かがいる。薄暗い部屋の中で黒いコートに跳ねる癖毛のシルエットが見え、ゼクシオンは目を見張った。扉を開いて中に踏み入ると、足音に気付いて相手が振り返る。

「おや」

 一瞬驚いたように相手も目を見開いたが、すぐに表情を緩めていつもの余裕を纏う。

「こんなところでお会いするとは」
「マールーシャ」

 思わずその名を呼んだ。面と向かって対峙するのは久しかった。任務だか何だかで、長らく不在だったのだ。戻っていたなんて知らなかった。

「いつ、戻ったんです」
「つい先程」

 マールーシャは短く答えた。台に置かれたランプの明かりに照らされる横顔には、僅かに疲労が見て取れる。戻ったその足でここに来たのだろう。よく見ると黒い革のコートは任務中の戦闘のせいか汚れているようだし、彼の独特な香りに混じって知らない場所の匂いが感じられた。いつもの優美な様子とは違ったが、無事に戻ったその姿を見て、何処かほっとしている自分がいることを自覚せずにはいられなかった。

「そっちはどうしたんだ。眠れないのか」
「……寒くて」

 やさぐれるようにゼクシオンが呟くと、何か作ろうか、とマールーシャは貯蔵庫に向きなおって中を検分する。

「白湯でいいですから。僕のカップ、取ってくれませんか」
「そんな味気ないものはつまらん」

 そう言いながらマールーシャは、ミルク瓶を取り出してごとりと台の上に置いた。

「寝かしつけには最適だろう」

 ホットミルクか。確かに古典的だとゼクシオンはぼんやりと古い記憶をさらった。幼かった頃、誰かしらが用意してくれたそれを眠る前に口にしたことがあったように思う。その時の感情は、もうこの胸には残っていないが。
 マールーシャはゼクシオンのカップを棚から出しながら言った。

「温めて、蜂蜜をいれよう。ブランデーがあればそれもいい」
「……ノンアルコールでお願いします」

 たった今任務から帰った相手に用意をさせるのは些か申し訳ない気もしたが、マールーシャはむしろ楽しそうな様子で、小鍋にミルクを注ぎ、火にかけ、蜂蜜を並べ……とてきぱきと動いた。口を挟む余地すらなかったので、ゼクシオンはそのまま大人しく振る舞われることにした。他人が作ってくれるものを口にするなど、こんな身体になってからは滅多にない機会だ。

 火にかけられた小鍋を二人で黙って囲んでいた。ようやく会えたというのに取り立てて会話はなかったけれど、静かにミルクが温まっていくのをただ眺めている時間は存外悪くない。
 ふつふつと泡がふちに上ってきた頃合いで火から小鍋をおろした。蜂蜜を入れたカップに湯気の立つミルクを注ぐと、マールーシャはカップをゼクシオンに渡す。

「ありがとうございます」

 素直に受け取って、そっと口に含んだ。あたたかい。とろりと甘いホットミルクがじんと身体に沁みわたっていく。カップから伝わる温かさに、指先のかじかみもほどけていくような心地になった。
 ふと視線を感じ見上げると、とマールーシャは何をするでもなくただこちらをじっと見つめている。

「……何か」
「いや」

 もの言いたげな視線に反してマールーシャは何も語らなかった。
 不意に伸びてきた手が、ゼクシオンの長い前髪をそっとさらう。ばらけた髪の毛の間からマールーシャと目が合った。焦がれていた青色がそこにある。

「先に休む」

 そういうとマールーシャはそっと身を引いた。止める間もなく去っていく後姿を、黙って見送ることしかできずにゼクシオンは一人そこに立ち尽くしていた。

 身体は温まり、心ないはずのこの胸すらも先ほどまでの冷たさを感じない。空になったカップを静かに洗っていると、自然と欠伸が出た。
 今夜は、いつもよりも眠れるかもしれない。そう思いながらゼクシオンはコートを羽織り直し、ほのかに温もりを残した厨房を後にする。

 


今日の116
最近寒くて寝付きが悪いと言ったら寝る前にホットミルクを作ってくれた。安心する味がする。今日はいい夢見られるかも。