075 心配で部屋を訪ねる

 深い眠りから覚めて、マールーシャはすっきりした気持ちで目を開けた。お世辞にも寝心地のいいとは言えないスプリングの効いた硬いマットレスの上で、この日何度目かわからない目覚めを迎える。
 長期に渡る任務を終えて、昨夜根城に帰還したばかりだった。報酬代わりに僅かばかりの休暇を頂戴したので、英気を養うべく気の済むまで惰眠を貪っていた次第である。
 何をするでもなく起き上がると、ぼんやりと窓から外を眺める。景色は相も変らぬ漆黒のダークシティ。茫洋たる闇夜の先に点と浮かぶ金色の月が光を放っていた。小さくも力強い輝きに、しばしマールーシャは目を奪われる。

 

 こつこつと扉を叩く音で、ぼんやりと魅入られていたマールーシャは現実に引き戻された。音のする先に目を向けて、はて、と小首を傾げる。来客の予定はないはずだった。
 コートを羽織って扉に向かい開くと、意外な来訪者の姿にマールーシャは目を瞬かせた。

「珍しいこともあるものだな」

 ゼクシオンがそこに立っていた。やってきたのはそっちのくせに、扉が開いたことがよほど想定外だったのか、相手も負けず劣らず驚いた様子で立ち尽くしていた。

「いつ戻ったんです」
「昨夜」
「そう、ですか」

 短く返事をするゼクシオンは、どこか不機嫌そうだ。言葉の続きが出てこない。わざわざ来ておいて、どういうことだろう。マールーシャは不思議に思いながらもゼクシオンが何か言うのを待った。考えを巡らせていた様子だったが、やがてゼクシオンも仏頂面のまま呟く。

「……長期任務だなんて、聞いてないですよ」

 ああ、とマールーシャは相槌を打つと、任務を言い渡された日のことを思い起こした。

「急に言い振られたからな。すぐに発てだとか、全く上官様の人使いの粗さには驚かせられる。いやこの場合ノーバディ使いという方が的確か」

 ぶつぶつと言っていると、不意にゼクシオンが大きなため息をついた。見ると、脱力したように肩を落としている。呆れたようにこちらを一睨みすると、元気そうで何よりです、と呟いて去っていこうとする。何なんだ一体。と思ったが、拗ねるような物言いにピンときて慌てて捕まえて部屋に引きずり戻し、問いただした。

「不在を心配してくれていたのか」

 ゼクシオンは答えない。仏頂面のまま目線を逸らしているが、答えがないのが答えだろう。おやおや、可愛いところがあるじゃないか。

「すまなかった。連絡の余地も手段もなかったんだ」
「そんなの分かっています」

 噛みつくような返事はとても彼らしくて、なんだかこちらが安堵してしまう。ありがとう、と腕に力をこめると、ゼクシオンが下からこちらを見つめているのに気が付いた。長らくお預けにされていた分の催促だろう、とマールーシャは目を閉じて身をかがめる。しっとりと柔らかい感触と、温かい体温。次に得られるのは、それらのはずであった。ところが唇に何かが触れる前に、ばちん、と子気味いい音を伴って弾かれたような衝撃が額に走る。

「いた?!」

 予想外の痛みにマールーシャは仰け反るようにして身を離した。ちかちかと眩むような衝撃に耐えながら目を開けると、ゼクシオンが怒りを露わにして鋭く睨み付けていた。

「余計な気を遣わせないでください……!」

 むきになってそう捨て台詞のように吐き捨てたかと思うと、ゼクシオンはコートの裾を翻してそのまま部屋を出て脱兎のごとく駆けだした。逃げるように去っていく後姿を、マールーシャは呆然と眺める。なんという照れ隠しだろうか。今のは全く可愛くないぞ。

 再び部屋に一人になると、痛む額をさすりながらふと、不在の間彼がこの部屋を訪れる日々を想像した。誰もいないこの部屋の前に来ては扉を叩き、返事がないのを確認して、また一人戻っていく彼の背中。任務に出ていた期間は短くはなかった。いったい何度此処まで足を運んでくれたのだろう。空虚であるはずの胸の内が温まる思いがした。なんだ、やっぱり可愛いじゃないか。
 今夜は自分が、彼の部屋を訪ねてみよう。

 

*お題は曲解しています

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今日の116
今朝からいくら連絡しても繋がらないから心配で部屋を訪ねる。結構焦っていたのに、ドアを開けたら普段通りの顔色。悪びれもなく「今日携帯忘れてった」とかいうからデコピンしてやった。