076 リップクリームを買う
もう何度となく聞かされているしつこい小言がまた飛んできたので、ゼクシオンはうんざりして見上げた。注意を投げかけたマールーシャも腕を組みながら、何度言ったらわかるんだ、とあきれた様子だ。
「乾燥するじゃないですか」
「舐めたら荒れが悪化するだろう」
その場凌ぎは駄目だ、と言いながらマールーシャはポケットに手を突っ込んだかと思うと、丸く平たいケースを取り出した。それをそのままゼクシオンに手渡す。
「なんですかこれ」
「リップクリーム。乾燥したら使え」
マールーシャはこう言ったことに余念がない。いつ見ても彼の唇がつやつやして乾燥を感じさせないのも、日頃からきちんとケアをしている事実の表れだろう。手のひらに受け止めたその小さなケースには、小さく花のイラストがプリントされていた。
「リップクリームなんですか? 変な形」
「バームタイプだ。塗るのは少々手間だが、保湿力が高い。どうせそう頻繁に塗らないだろうし丁度いいだろう」
「お気遣い痛み入ります」
皮肉を込めて返事をして、ゼクシオンはバームの蓋を開けてみた。見た目はただの半透明のワセリンだが、開けた途端甘い香りが真っ直ぐに鼻孔に届いた。蜂蜜の匂いだ。ほんのわずかに使った形跡はあるものの、ほぼ新品同様だった。
「いいんですか、いただいちゃって」
「是非使ってくれ」
「……どうも」
ゼクシオンは礼を述べてると、せっかく蓋を開けたところだし、とバームを指先に少し取った。少し前まで彼のポケットに収められていたからだろう、僅かにその体温を纏ったバームは柔らかく指に馴染んだ。かさついた自分の唇に、そっとすり込むように塗っていく。……唇に何かを塗るなどという慣れぬ動作になんだか落ち着かなくなった。それもそのはずで、いつの間にかマールーシャが極至近距離からその動作を見つめている。
「なんですか」
「いい匂いがする」
「そりゃ、貴方の趣味で」しょうから、と言いかけたその言葉の末尾は、音もなくマールーシャに飲み込まれた。ふっくらとした唇が優しく押し当てられると、自分の唇のさかむけが際立った。突然の体温に驚きながらも、相手は痛いんじゃなかろうか、と考えた矢先、柔らかな唇の間からぬるりと蛇のような舌が這い出てきて更にゼクシオンはぎょっと身を固める。
塗ったばかりの唇の保護剤が舐めとられていく。こじ開けるように隙間に入り込み、強引な追求にあえなく陥落してその先を許してしまった。
「……唇を舐めるのはいけないのでは?」
「すまない、つい、出来心で」
マールーシャは澄まして言うも、その表情は堪能したとばかりに満足げだった。
こんな調子でこのバームを使っていて、はたして本当に唇の荒れが治るのか、怪しくなってきた。
(まあ、潤いは得られるのかもしれない……)
濡れた唇をそっと指先で拭ってから、ゼクシオンははっとする。何を考えているんだと自分の思考にうんざりして、バームを自分のポケットの奥にこれでもかという勢いでねじ込んだ。
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今日の116
唇が乾燥するのでリップクリームを買う。間違えてバームタイプを買ってしまい指で塗っていたらキスされて余計唇が荒れた。