087 海に行く

 車窓の向こうに海が見えていた。休日に、少し遠くまでドライブしたその帰りのことだ。
 珍しい景色に助手席から窓に額を付けてゼクシオンが外を眺めていると、それに気付いたマールーシャが速度を緩めた。広がる景色を見つめたままゼクシオンが声を上げる。

「海、近かったんですね」
「そうみたいだな。そこの先から浜まで出れるようだ」
「ふうん」

 熱心に眺めていた割に、口から出た返事は気のないものだった。
 海というものは物語や額縁の中ではあんなに美しく描かれているのに、現実ときたら潮風はべたつくし、靴は砂まみれになるしで存外素敵な物とは言い難い。遠くから眺めている分には悪くないが、実際に足を運ぶのはあまり気乗りしなかった。幻想を抱くのが好きなだけなのかもしれない。
 ところがそんなゼクシオンの胸中など知らぬ様子で、マールーシャは窓を開けて気持ちよさそうに風を受けながら言った。

「ちょっと降りてみないか」
「えっ」

 あからさまに嫌そうな声を出してしまったことに一瞬慌てるが、伺いを立てながらもマールーシャは返事を待たずにウインカーランプを点滅させて浜辺に通じる道に猛進していた。
 乗り気でないながらも誘いを断り切れず、ゼクシオンは仕方なく車を降りる。渡された日焼け止めを塗り直してから、二人で海岸へ向かった。

 

 夏も終わり涼しくなってきているせいか浜辺は閑散としており、熱心なサーファーが浅瀬の辺りに数人いる程度だ。浜辺はゴミも少なく、砂は白くて比較的きれいな海岸だった。
 潮の香りのする風を受けながら波間の煌めきに目を細めていると、隣でマールーシャが不意にかがんだ。見ると、靴を脱いでいる。

「うそ、まさか」
「入ろう、足だけでいいから」
「絶対嫌です」

 ゼクシオンの拒絶に構わず、靴下を脱いでズボンの裾を折り曲げたマールーシャは何のためらいもなく波打ち際に向かった。寄せる波を素足に受け、冷たい、と叫んでから、こちらに振り返る。楽しそうに細くなった目が、おいで、と言っている。
 ほんの僅かな葛藤の末、ゼクシオンは渋々と近寄って、まだ濡れていない砂浜のぎりぎりのところまできた。かがみこんで透明な海水にそっと指先をつけるが、震えあがるくらい冷たい。
 瞬時に手を引っ込め顔をしかめるゼクシオンをみて笑いながら、水際に引き込むのは諦めたのであろう、マールーシャは一人で足を濡らしながら波打ち際を歩きはじめた。後ろからついていくような形でゼクシオンも砂浜から後に続く。時折大きく寄せる波をよけたり、落ちている貝殻を拾ったり、楽しそうで、ふわふわと潮風になびく癖毛も相まって、なんだか大きい犬みたいだな、とゼクシオンはこっそり思う。立ち止まると、もはやこちらに構わずどんどん先に進んでいく後姿をそのまま見送る。果てのない砂浜を進む背中はすぐに小さくなってしまった。海は、何と広いのだろう。

 砂浜の中腹の辺りまで戻るとしゃがみ込んで落ちていた木の枝を拾い、何を書くでもなく砂浜に書きつけた。さりさりと細かい砂の感触が枝から手に伝わるのはどこか愉快だった。西日がチリチリと首を焼く。

「何を書いてるんだ」

 上から声がする。見上げると、戻ってきたマールーシャが覗き込んでいた。手にしていた枝を放りながら別に、と呟く。戻ろうか、とマールーシャは微笑んだ。浜辺を満喫したらしい。
 短い滞在だったが二人とも足元が砂だらけになっていた。マールーシャに至っては濡れた足に砂がまとわりついて見るも無残だ。車が汚れるとゼクシオンが靴をはたく横で、汚れたら掃除すればいいだけ、なんて本人はあまり気にしていない様子だった。

 出来る限り砂を落としてから車に乗り込む。やっと人心地着いた、とゼクシオンがシートに沈み込んでいると、隣に乗り込んできたマールーシャからはい、と何か手渡された。
 見るとそれは、見事な巻貝だった。掌ほどもあるそれは真っ白で、内側はほんのりと淡い桜色だ。

「うわ……」

 図鑑でしか見たことのないような立派な造形に言葉を失いながら、ゼクシオンは受け取ったそれをまじまじと見つめた。

「きれいな海岸だったな。貝殻もたくさんあった」

 そういうマールーシャは上機嫌だ。ゼクシオンが黙ったまま見入っているのを満足そうに眺めてから、ゆっくりと車を発進させた。

 車の中には彼の好きな音楽が流れ、夕日を写す水平線を背に今度こそ家路に向かっていく。

「退屈だったか?」
「そんなことは」

 彼からしたら、楽しくなさそうに見えたのかもしれない。でも決して悪くない時間だった。波の音、潮の匂い、青い海を背景に弾むような桃色の後姿。忘れないようにと、ゼクシオンはそれらを何度も反芻して噛みしめる。

「貝殻に耳を当てると、海の音がするとか言うだろう」

 ハンドルを握り前を見つめながらマールーシャが言った。

「どうだ、聞こえるか」
「聞こえるわけないでしょ」

 冷たくあしらうけれど、貝殻を大切に持った手に力がこもった。車窓から見える風景はどんどん日常に戻っていく。
 手の中の白い貝殻を見つめながら、部屋で一人になったら耳に当ててみようか、などと、ゼクシオンはこっそり考えている。

 


今日の116
海に行く。足の先だけつけてみたが冷たいのですぐに上がる。砂浜に枝でいろいろ書いてみる。