088 ゼラニウムを育てる
まだ心地よく夢の縁を渡っていたゼクシオンは、優しく肩を揺さぶられて現実のベッドの中に呼び起された。ううん、と肩に触れる手を振り払って布団を被り直す。目覚ましのアラームよりも早い。わざわざ声を掛けてくるあたり何かあったのかも、と思う気持ちもあれど、身体は素直に睡眠欲を選択した。マールーシャも諦めたのか、再び肩をゆすることはせず、足音は遠ざかっていった。彼には悪いが、あとにしてくれ、とゼクシオンは再びぬるま湯のような夢の中にずぶずぶと身を沈めていく。
ところがほどなくして再び足音が近づいてきたかと思うと、またも耳元で名前を呼ばれた。もう、放っておいてくれ、と寝起きの不機嫌な気持ちでゼクシオンは寝返りを打つ。と、その時、部屋に持ち込まれた新鮮な匂いに気付いた。湿り気を帯びた、土の匂い。
もぞもぞと布団から顔をのぞかせると、まだ薄暗い部屋の中でマールーシャが自分を覗き込んでいた。おはよう、と微笑むその笑顔は珍しく朝から上機嫌の様子だ。見ると、腕に鉢植えをかかえている。
「なん、ですか」
「ゼラニウムが咲いたんだ」
誇らしげに、愛おしそうにそう言ってマールーシャは鉢植えごと花を差し出して見せた。あ、と声を上げると、ゼクシオンは幾分かはっきりした頭で身を起こして部屋の電気をつけた。明るくなった室内で目をこすってから見ると、青々とした葉から突き出すように伸びた赤い花が小さく咲いている。
「もう、咲かないかと思った」
小さくそう呟きながらゼクシオンはしげしげとその花を見つめる。
この鉢は、自分がマールーシャに贈ったものだった。店先で咲き誇る赤いゼラニウムを見たときに、そのくっきりと美しい色合いが彼に似合うんじゃないかなどと思ってつい足を止めてしまった。すぐに店員につかまり、あれこれと勧められた挙句、推しに弱いゼクシオンはまだ蕾の状態の鉢をひとつ腕に抱えながら帰路につく羽目になっていた。また増えてしまった鉢の置き場に頭を悩ませながら家に帰ると、自分の心配をよそに彼は大喜びで新しい仲間を迎え入れてくれたのだった。
すぐに店頭で見たような見事な赤が咲き乱れるに違いないと信じていたのに、水のやり方が下手だったのか、なかなか花にならないばかりか蕾はそのまま落ちてしまうものが多く、ゼクシオンはショックを受けていた。こんなことならば蕾ではなく最初から花のついたものを買えばよかったと嘆いたが、マールーシャは気にしていない様子で根気よく花に接し続けていた。
そうした結果、彼に贈った赤いゼラニウムはついに花開いたのだ。ひとえに彼の努力の賜物に他ならない。
「綺麗な赤だ。他の蕾も膨らんできたし、この調子でもっと咲くだろう」
そう言って嬉しそうに花を眺めていたマールーシャは、鉢を膝の上に戻すと今度は真っすぐゼクシオンを見つめて言った。
「素敵な花をありがとう。すぐに見せたかったんだ」
花に向けられていた愛しそうな視線がそのまま自分に向けられていることに気付き、ゼクシオンは布団の中でじわじわと火照っていく。花屋で店員の教えてくれたゼラニウムの花言葉を思い出して、幸せそうに笑う彼の表情に自分もまた同じ気持ちになっていた。
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今日の116
ゼラニウムを育てることにした。赤いゼラニウム。花言葉は「信頼」「尊敬」「貴方に宛てた幸福」。やっと咲いた花を見つめる表情が嬉しそうだから、幸福は届いたみたい?