095 パンジーを育てる2
静かに寝室を出ると、暖房の届かない廊下は震えあがるほど寒い。ちぎれてしまいそうに冷たい水道の水で顔を洗うとようやく頭も冴え始めてきた。冬の朝は起きるだけでかなりエネルギーを消耗する。
着替える前に日課をこなしてしまうことにして、ゼクシオンはそのまま居間へと向かった。薄暗い居間を抜けて意を決してベランダに続く窓を開けると、冷たい風が一直線に顔に吹き付けて思わず首をすくめる。慌ててブランケットを引っ張り上げて隠れるように顔の周りにまで纏わせた。まだ薄暗い外には動くものを認めない。人の息の混じらない朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んでから、かがみこんで足元に置いてある如雨露を手に取った。ブリキの持ち手は芯まで冷え切っててのひらを焼くようだ。
キッチンでそれに水を満たしてまた来た道を戻ると、これまた一大決心とともに凍えるベランダに降り立つ。吹き付ける風にこれ以上なく身を縮めながら、ベランダ中に蔓延る植物たちに水を遣ってまわった。ベランダにいるのは冬でも大丈夫なものに限っているが、朝から咲き誇るものは少なく、慎ましやかな緑の葉に胸の内で声を掛けながら淡々と日課をこなしていく。
『花に水を遣るときは、話しかけてやるといい』
かつてそう言われたことを、律儀にもゼクシオンはひっそりと守り続けていた。ずいぶん前にした他愛ない会話なのに、その時のやり取りは鮮明に思い起こすことができる。
『花が、聞こえるわけないじゃないですか』
『そう思うか?』
ひねくれた自分の主張を決して杜撰にせず、余裕の塊みたいな彼は微笑んで言った。
『口に出さなくたっていいんだ。美しく咲いていればその姿をしっかり見据えてやればいいし、咲き終わった花は労ってから摘んでやればいい』
要は、愛情をもって接するということだ、と、そういう彼の視線はすでに花へと注がれていて、植物に向けられた無垢な眼差しに少し嫉妬した自分の胸の痛みすら一緒に思い起こされてしまう。
『それに、存外花も聞いているものだよ』
そういってまたこちらに向きなおった彼の笑顔を直視できなくて、拗ねるようにそっぽを向いてしまったっけ、なんて。思い出して急に地団太を踏みたくなるような恥ずかしさに駆られゼクシオンは水やりを一時中断すると、長いため息をついた。
冬は寒さに弱い彼の代わりに朝の水やりを申し出てから、如雨露を手にするたびにそのやり取りを思い出して、ゼクシオンはひっそりと心の中で鉢に念を送るように水を与えてきた。彼のように声に出して、やれきれいだなんだと褒めちぎるようなことはしなかったが、それまでよりも注意深く鉢を見て回るようになった。枯れたら承知しませんよ、と優しさもへったくれもない念を飛ばしながら植物たちと接していると、蕾の長かった花もそのうちきれいに咲き誇ったりして、殊更それを見た彼が嬉しそうにするのがまた自分も嬉しかったりして、そういった花への接し方はいつのまにか自分の中でしっくりと落とし込まれていた。
一息つくと、気を取り直してゼクシオンはベランダの残りの鉢に向かった。ベランダの隅で、この季節に珍しく花を咲かせているのはパンジーの鉢だ。迎えたときは蕾だらけだったその鉢は、見ればこぼれんばかりにアプリコット色を咲き誇らせていた。黄色のパンジーがほんの少し紅潮したような色合いが可憐だ、とか何とか言いながら彼が今年選んだ色だ。アプリコットにちなんで咲いたら記念にジャムでも買おうとひっそり胸の内に決めながら、早くジャムにおなり、などと呼びかけ水やりに勤しんでいたのは彼には秘密である。
鉢の側に屈みこんでまんべんなく水を与えながら、柔らかな色合いをじっと見つめた。初めてパンジーを部屋に迎え入れたのは去年の晩秋だ。寒さに強いからと彼が買ってきた黄色いパンジーのことはよく覚えている。時の流れは速いものだ、とゼクシオンは感慨深く息をつく。
「きれいに咲いたな」
不意に頭上から声が降ってきて驚いて振り返ると、マールーシャが上から覗き込んでいた。冬の朝に弱い彼がこの時間に起きだしているのは珍しい。
「今日は早いんですね」
「なんとなく、咲いた気がして」
機嫌よく言うとマールーシャはパンジーを見せるように目で促した。ゼクシオンが抱え上げた鉢を色々な角度から眺めて、思った通りの色だ、と満足そうに頷く。
風が強いから今日から鉢を部屋に入れようという提案に頷いて、ゼクシオンも如雨露を片付けてからパンジーを抱えて部屋に上がった。窓を閉め切ると、いつの間にか暖房の効いた部屋は暖かく、キッチンからはくつくつと湯を沸かす音が聞こえている。水を遣っている間にマールーシャが整えてくれていたようだ。
設えた棚にパンジーを置いてから、手を洗って服装を改めた。トーストの焼ける匂いに機嫌よく席に着くと、はい、とマールーシャが目の前に何か置いた。見ると、アプリコットのジャムだ。
「なんだかタイムリーですね」
まさにこのタイミングで目の前に現れたことに驚きながらゼクシオンはマールーシャを見上げた。花が咲いたら買おうと思っていたまさにその品だ。
「言っただろう」
とマールーシャも楽しそうに席について言う。
「花には聞こえているものだよ」
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今日の116
パンジーを育てることにした。アプリコットのパンジー。花言葉は「天真爛漫」。「咲いてる!」って呼びに来たときの笑顔はたしかに天真爛漫だったね。