密夜の約束 - 2/4
目覚めと共に重たい瞼をゆっくりと開く。馴染み深い自室の天井を認めると、安堵するようにもう一度目を閉じてゼクシオンは深く息を吐きだした。
五感を研ぎ澄ませて自分の状態を確認する。薄暗い部屋は変わらぬ私室、スプリングの効きすぎな硬いベッドもよく知ったものだ。指先に触れるシーツの冷たさ。ベッドのわきにいつもの革のコートが掛かっている。ひとつひとつ周囲にあるものに意識を巡らせ、それが自分の日常の情景と変わりないことを確認するとゼクシオンは自分に言い聞かせた。大丈夫、ここは知っている世界。まぎれもない現実の世界だ。
寝起きだというのに身体はどこか疲れていたが、夢見が悪かったせいでもうひと眠りする気にはなれなかった。ぼんやりしていると夢の断片が脳裏にちらつく。その残骸を振り切るように、ゼクシオンは苛立たし気に身体に巻き付けていた毛布を掴んで頭まで引っ張り上げた。身を守るようにシーツの上で身体を丸める。
なかなか眠れない夜と、ようやく眠りに落ちた先での奇妙な出来事に、ここ最近ゼクシオンはずっと悩まされていた。
ここのところ、ゼクシオンは睡眠に関して不調を極めている。もともと寝つきのいい方ではなかったが、最近はいつにも増して寝つきが悪く、ようやく寝入っても数時間とたたないうちに目が覚めてしまうことが頻発していた。どうせ眠れないならばといつもより多く仕事を持ち帰り夜の時間を当ててみたりするものの、日中は通常通り機関員としての任務に取り組む必要があるため、当然疲労は蓄積する一方だ。
毛布の隙間から顔をのぞかせたゼクシオンは、サイドテーブルの上に乗った小瓶を一瞥する。これを使うようになってどれくらいたっただろうか。
日中の行動に支障が出ては困るので、最近では自身で調合した簡単な睡眠薬を利用するようになった。昔から寝つきのいい方ではなかったため眠剤の作り方は心得ていた。これによって入眠の悩みはそれなりに解消されたものの、副作用らしく起きても眠気とだるさが残りすっきりとしない。しかしそれはある程度は目を瞑れた。眠ることさえできれば、肉体的な疲労は回復することは期待できたからだ。
だがそれよりもゼクシオンを悩ませている決定的なことがある。奇妙な夢を見ることが増えているのだった。
夢の詳細は、記憶にない。意図して記憶から切り離しているのだろうか、とにかく気分のいいものではなかったことだけは覚えている。
暗い部屋の中に、ゼクシオンはいつも誰かと一緒にいる。相手の顔は見えない。けれど顔の見えない相手と夢の中の自分はとても近くにいた。触れていなかったことはない。折り重なるようにして肌を合わせ、服は着ていたり、着ていなかったりもした。触れる相手の肌の熱さ、汗にぬめる感触までもが起きて尚この手に残っているのだから気味の悪いことと言ったらない。あまりにもリアルな艶めかしさを思い出し、起きている現実でも嫌な汗が滲む。
更には夢見が悪い他にも気になることがあった。
起き上がり、被っていた毛布を払うとゼクシオンはそっと袖を捲り上げる。白い腕の内側に滲むような痣があるのを見付け、陰鬱な気分に拍車がかかる。おかしな夢に悩まされた翌朝は、こんな調子で知らぬ間に怪我をしていることが多かった。
主に四肢。目が覚めると腕や脚に、痣のような変色が認められた。痛むことはないが、肌が白いせいで目立ってしまうのは良い気分とは言い難い。幸い服に隠れる部分であることが多いので人目に付く心配はなかったが、それでも痣が増えるにつれて自身に起きている異変を軽視できなくなってきていた。
睡眠薬の副作用によって寝ている間にベッドから落ちたか、或いは無意識のまま部屋の外を出歩いてなどいないだろうか、などと原因を考えてみるものの、やがては考えすぎだろうという結論に至る。子供でもあるまいし、起きた時は間違いなくベッドの中にいるのだ。
眠りから覚めるたびにこうして自身の不調に悩まされる日々ではあるが、ぼんやりと首を傾げていても埒は明かない。眠れなくとも夜は更けるし、朝になれば任務を遂行する義務がある。
ゼクシオンは身体を伸ばしてからベッドを降りた。着替えを済ませるとブーツを履いて白の床を踏みしめる。コートに袖を通し、気持ちを切り替えるためかちりと金具を留めると、任務に向かうため部屋を後にした。
妙な夢にうつつを抜かしている暇などない。ノーバディとして存在している自分はいま、機関のために身を捧げる他ないのだった。
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任務から戻ったゼクシオンは庶務を済ませた後私室へ向かう。簡単な調査任務だったため、そう労力はかからずに済んだので安堵していた。とはいえ連日の寝不足と任務による疲労とでその足取りは重い。口頭での簡単な報告を済ませた際、ひどい顔だったのだろう、サイクスももの言いたげな表情であったが、小言が飛んでくる前にゼクシオンはその場を辞退した。疲れは蓄積されているが任務に出られないほどではない。こういう時は暗い城に閉じこもって研究に没頭するより外の世界へ赴いた方が気分転換にもなる。多少労力を強いられたとしても、肉体的疲労があった方が入眠の助けになるといえるくらいだ。
しかし圧し掛かるような重だるさが着実にゼクシオンを蝕んでいるのもまた事実だ。疲れに任せてこのまま寝てしまいたい。そんなことを考えながらふらふらと長い廊下を歩いていると、前からこちらに向かって歩いてくる影があった。黒いコートに身を包んだその相手は、距離を縮めるにつれて体格の良さを露わにした。漂う独特の空気を感じてゼクシオンは胸中でげんなりした。疲れているときにあまり相手にしたくない人物だ。けれど相手はそんなゼクシオンの胸中など露知らず、すれ違う際わざわざ立ち止まると軽やかにフードを外して微笑んだ。紅の花弁がふわと舞うのにゼクシオンは思わず眉を顰める。花の香りは苦手だった。
「おはよう、ゼクシオン。もう任務帰りか」
「……そういう貴方はこれから任務ですか、マールーシャ」
マールーシャは穏やかに微笑んだままゼクシオンを見下ろした。単に身長差の問題であるが、どうにもこの男の視線は気に食わなかった。甘く漂う花のような香りも、動作のたびに視界にちらつく花弁も、今のゼクシオンには煩わしいことこの上ない。いや、もとより、だろうか。
「早起きには頭が下がるよ」
わざとらしく欠伸してみせるマールーシャを、ゼクシオンは静かに観察する。
どういう風の吹き回しだか、この男、マールーシャが顔を合わせる度にやたらと声を掛けてくるようになったのは比較的最近からである。初期メンバーとばかり行動している自分と、最近機関に入った者同士で集うことが多い彼との仲が良いわけなどない。一緒に任務に同行したことすらないはずだ。
疲れも相まってかゼクシオンはぼんやりと考えに耽っていたが、ふとこちらを見つめるマールーシャの視線に気付く。黙ったままゼクシオンの腕を見ている。まるでコートの下を見透かしているかのような鋭い眼差しにどきりと心臓が強く打った。そこはちょうど、痣のあるところだった。
「あの……何か」
さりげなく腕を庇いながらゼクシオンは半歩下がった。マールーシャは我に返ったように、再び作り笑いのような微笑みを浮かべた。
「いや、失礼。私も任務に向かうことにしよう」
そう言うとマールーシャはフードを手繰り寄せる。任務に発つのだろう。
なんだか余計な気疲れをした。一刻も早く部屋に戻って休みたい。少し仮眠を取ろうか、でもそうしたらまた夜に眠れなくなるだろうか、と疲れた頭で考えを巡らせた。
相手はとっくに立ち去ったと思っていた。しかし、不意に近くに相手の気配を感じゼクシオンは足を止めた。甘い香りが濃く鼻孔に届く。なにごとかと振りかえろうとした、まさにその時だった。
「よく休め。研究者殿に寝不足は大敵だろう」
耳元で囁く声は、沁み込むように耳孔の奥に響く。驚いて振り返るも、マールーシャはもう廊下の先をまっすぐ進んでいた。ゼクシオンは呆然と立ち尽くす。
何故彼はあんなことを言ったのだろう。まるでゼクシオンが夜眠れていないことを知っているかのような物言いではなかったか。
血の引くような感覚をおぼえ、ゼクシオンも足早にその場を後にした。鼻孔に残る花の香りを断ち切るように、気付けば駆けだしていた。
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朝になり目が覚めても、なかなか起き上がる気力がわかない。寝覚めは悪い方ではないとこれまでは自負していたが、ここ最近はひどいものだった。
呻くようにしながらもゼクシオンはなんとか身を起こした。全くと言っていいほど疲れは取れていないし、寝て起きただけなのに身体のあちこちが痛む。こんな調子が続くようではいずれは任務にも支障を来すだろうし、それ以前に自身がどうにかなってしまいそうな不安に苛まれた。頭を抱えてため息をつく。いったい何故こんなことになってしまったのだろう。
重たい腕を持ち上げて見た。腕の内側に新たな紫色の変色を認める。帯状に広がるその痣は、何者かに押さえつけられた跡のように見えなくもなかったが、さすがにそんなはずはあるまい、とゼクシオンは自分の中でそう決めこんだ。
妙な怪我が増えるのも変わらぬ悩みの種の一つだった。いったい寝ている間の自分に何が起きているのだろう、と思いはしても、その言動を明らかにしようとはこれまで思っていなかった。おおかた睡眠不足がたたって血の巡りが悪くなり、その結果痣が出来やすくなっているのだろう、とそれらしい理由を頭の中で作り上げていた。四肢を振り回してぶつけるほど自分の寝相はおかしいのだろうかと思わなくもなかったが、そこに外的要因があるとは露ほども思っていなかったからだ――この日までは。
霞がかった頭のまま、しかしいつまでもそうしているわけにもいかず、ゼクシオンはベッドから降りた。雨が降ろうがダスクが降ろうが、今日も今日とて任務はある。
出掛けるための服に着替えようとして着ていたシャツを脱ぎ、そうして何気なく自分の身体を見下ろした時、危うくゼクシオンは悲鳴をあげかけた。初めて見る変化がそこにあったのだ。
胸部一帯に、いくつもの赤い傷痕がついている。白い肌の上でそれらは毒々しくその存在を主張していた。恐る恐る触れてみると、赤く色付いているものの、よく見れば傷になっているわけではない。皮膚はどこも破れていないし、一見すると虫刺されのように見えなくもないけれど、刺された形跡もない。
鼓動が速くなる。鬱血痕に違いなかった。ぶつけたのとは違う種類のものであることも、頭では理解ができる。しかし、なぜ自分の身体にそのような痕が残っているのかについては全くの疑問だった。耳の奥が鳴るような頭痛を感じる。どのようにしてこの傷ができるに至ったのかを考えようとする一方で、脳は考えることを激しく拒絶している。何故ならその原因を追究すると、自分以外の誰かが関わってくることになるからだ。誰かに付けられた? そんな馬鹿な。他者が身体に触れたのかと考えるだけでもぞっとする。頭痛に加えて眩暈と嘔気までこみ上げてくる始末だ。
ふらつく足でゼクシオンは浴室に駆け込んだ。洗っても流れ落ちてくれるわけではないけれど、そのままにしておくことなどできなかった。身に着けていた残りの衣服を取り払いながら怯えるように目線を動かしたが、下肢の方には目立った痕は残されていないようだった。
ところが安堵しかけた矢先、下着の縁に手を掛けた瞬間ゼクシオンはそれに気が付いた。さっと血の気が引いたのが分かった。
手を掛けた場所、腰骨のすぐ上のところに、また別の跡があった。胸部の鬱血痕とも違うそれは、一つの事実を決定づけていた。
「歯型……」
気が遠くなるような感覚の中で、ゼクシオンは確信する。
寝ぼけて作った傷などではない。これは、確かに他者によるものであると。