密夜の約束 - 3/4
大きな窓からは月の光が煌々と差し込んでいる。物音ひとつしない部屋の中で、ゼクシオンは静かに座っていた。決めた就寝時間はとうに過ぎていたが、冴えわたった頭をそのままに暗い部屋の入口を睨み付けている。今夜は眠らずに起きていると決めたものの、部屋の明かりは点けずにいた。見えない相手を迎え撃つために、自分もまた影に身を潜めているような気分だった。
不可解な現象の原因が眠っている間に起きていると踏んだゼクシオンは、夜の自分の周囲で何が起きているのかを確かめるべく眠らずに過ごすことにした。寝相が悪いだけの話なら起きていても確かめようがなかったであろうが、自身の身体に現れる謎の痕跡が他者によるものだと確信したので、こうして自分の目で事態を見極めようと考えたのだ。元来、わからないことや不可解なことは自身が納得するまで追究したがる質だ。自分に危害を加えている相手ともあらば、なんとしてでもその正体を暴き、動機を吐かせ、場合によってはきっちりと落とし前を付けさせる必要がある。
静かな夜は刻々と時を刻むが、いつまでたっても部屋には何の変化もなかった。誰かが訪れる気配もないし、自身に何らかの異常が起きることもない。暗い部屋のベッドの上で蹲りながら神経をとがらせていたが、結局その夜は何も起きなかった。
一睡もしなかったうえに成果が得られなかったため色濃い疲労を引きずりながら任務に向かうはめになったが、ゼクシオンはめげずに考えを巡らせる。やはり自分が眠っているときに何かが起きているのだろうか。だとすればこうして起きている以上はそれは起こりえないことなのかもしれない。自分のしていることは無意味なのだろうか、と考えてしまうが、それでも今できることをするほかないのも事実だった。
一日が過ぎ二日が過ぎ、夜の敵はなかなか現れなかった。原因究明に闘志を燃やしていたゼクシオンも、さすがに一睡もしない日々が続くと誰の目から見ても疲労が明らかになった。サイクスにさえ休むことを提案されるが、部屋にいたところで気も休まらないし、第一眠るわけにもいかないのだ。任務に精を出した方が気がまぎれる、と言ってゼクシオンは怪訝そうなサイクスの視線を振り切って闇の回廊の先を猛進していった。
その日の任務はよく知ったワールドでの簡単な調査と、一帯に巣くうハートレスの排除という単調なものであった。単調とはいえ不休の身体には辛いものがある。ハートレスは弱小のものばかりだったため苦戦を強いられはしないものの、無尽蔵に湧き出る雑魚の相手をするのは骨が折れた。徐々に集中力を欠き、戦い方にもだんだんと粗が出てくるようになる。敵の一撃を避けた際、ぐらりと身体が傾ぐのを何とか踏みとどまる。しかしそれで精一杯だった。視界の先にまたハートレスが湧いて出るのが見える。一度撤退するしかない。朦朧とした頭でそう思った矢先だった。
風を切る音がした後、何者かが背後から割って入った。目の前に現れた黒い影が手にしていた武器を大きく振りかざすと、一帯のハートレスは瞬時に掃討されてしまった。
消えていくハートレスと反して辺りに舞う紅の花弁に気付き、ゼクシオンは眼前の男の背を見つめる。
「……マールーシャ……?」
呼ばれたマールーシャは振り返った。なんてことないように悠々と微笑んでいる。桃色の髪の毛がふわりと揺れ、また何処からともなく花弁が舞った。
辺りにハートレスがいないのを確認してから武器を収めると、マールーシャは一転して険しい表情でゼクシオンの方に向き直った。
「大丈夫か。ひどく疲れているように見える」
「ええ……それよりも、どうしてここに?」今日の任務が二人体制だとは聞いていない。
「様子がおかしいとサイクスが貴方のことを気にしていた。大方、研究に没頭して寝ていないのだろう、とな。あの時私もそばで見ていたが、確かに顔色も悪いし足取りも覚束ない。そこで様子見にと後から同行させてもらったというわけだ。そしてそれは、どうやら正解だったらしい」
満足げにそう語るマールーシャと相反してゼクシオンは唇を噛んだ。新人相手に醜態を曝したのは癪だけれど、助けられたのもまた事実だ。ため息をついてから小さく謝罪を述べた。
「手を煩わせてすみません」
「それは構わないが、本当に寝る間を惜しんでまで取り組む必要がある研究なのか? 新人風情に手を借りねばならぬくらいの不調に陥るまで?」
「……ええ、まあ、そんなところです」
どこか癪に障るいい方に感じられたが、真相を話すわけにもいかないのでゼクシオンは仕方なく肯定した。感心しないといった様子でマールーシャはじろりと見てくるが、彼に最近の不調を相談するわけにもいかないので喉元まで出かかった反論を何とか飲み込む。
「ここはもう大丈夫だろう。サイクスには私から報告をしておくから、貴方は先に部屋に戻って休んだらいい。鏡を見た方がいいぞ、ひどい顔だ」
「それには及びません。それにまだ奥のエリアの調査が残って……う、」
言い終えぬうちに不意に襲った立ち眩みに足がもつれた。あ、と思ったとき、マールーシャの手が肩を掴んでいた。支えられるようにしてそのまま腕の中に倒れ込む。
「部屋まで送っていった方がよさそうだな」そういってマールーシャはゼクシオンの目を真っすぐ覗き込んだ。「顔色が真っ青だ」
じっと見据えるマールーシャの青い目がこちらを探っているようにも思えてゼクシオンは身を固くした。どこまでも見透かすような瞳に身体が竦み、ゼクシオンは思わず目を逸らす。
肩に触れる手から力が抜けたのを感じる。しかしゼクシオンを解放するわけでもなくその手のひらは、肩を滑り、撫でるように腕に触れている。ぞっとした。この男、やたらと距離が近くないか?
「すみません、大丈夫ですから」
屈強な躯体を押し返すと、顔も見ず逃げるようにしてゼクシオンはその場を後にした。助けてくれた恩人だったことなどもう頭になかった。あの男は、なんだか受け付けない。
服越しに触れられた部分の感触がまだ残っている。彼から漂う甘い香りさえ身体に移っているような気がしてならなかった。
居住へと戻ると、安堵からかどっと疲労感が増した。さすがに体力に限界を感じている。サイクスにも部屋で休むように強く言われる羽目になったが、今回ははなからそのつもりだ。自分のすべきことはもちろん忘れていないけれど、こんな身体では何もできまい。せめて夜までは眠りたい。
私室に戻ったゼクシオンは、眠気と疲労に沈むようにコートも脱がずにベッドに倒れ込んだ。瞬く間に眠りの深淵に引きずり込まれていく。薬に頼らずに眠るのはいつぶりだろう、と思いながら、もうこのまま目が覚めなければ楽なのだろうか、などと考えている自分に気付く。
一度意識を手放すと、夢も見ずに昏々と眠った。
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最初に感じたのは、甘い香りだった。
不意に他者の気配に気付いたゼクシオンは身体を起こそうとして、しかしそれがかなわないと知る。暗い部屋の中、眼前に自分以外の誰かがいる。自分の上に圧し掛かっている。息をするのも忘れそうになりながら、ゼクシオンは闇の中に目を凝らした。
フードを目深にかぶった黒いコートの姿が眼前にあった。相手はベッドの上に乗りあがってゼクシオンの手首を掴んでいる。袖口から露になった白い腕の内側に唇を押し当てていた。じゅっと肌の上に走る痛みと熱に一瞬にして血の気が引き、同時に朧気だった意識が冴えわたる。
息を飲む音に、相手もゼクシオンが目覚めたことに気付いたようだ。闇雲に腕を振って払いのけようとするのを、相手はいとも簡単にひょいとかわして離れたところに降り立った。
「貴方は……っ」
ゼクシオンは言い淀んだが、その気配から感じ取れる相手の名前を、確かめるように呼んだ。
「マールーシャ……?!」
フードの下から覗く唇が妖しげに弧を描いたのをみてぞくりと肌が粟立つ。ノーバディだというのにこの男の唇は、なぜこんなにも赤いのだろう。
相手がフードを脱ぎ去ると見知った桃色の髪が広がった。花の香りと広がる花弁は、もはや間違えようもない。
「どうして貴方がここに? 今まで僕に何をしてきたんですか!」
ゼクシオンが威勢よく問いただすも、マールーシャは答えなかった。何か考え込むようにして顔に手を当てたまま、じっとこちらを見据えている。彼の、射抜くような真っ直ぐなその視線は苦手だった。
「答えなさい! 返答次第ではただでは済みませんよ」
声を荒げてゼクシオンは臨戦態勢をとる。こんなところで同士討ちなど望んではいないが、最悪の場合、この愚かな男を排除する必要がある。手に汗を握り相手の返事を待った。
対してマールーシャは悠然としたものだ。ゆったりと首を傾げながら、ゼクシオンにむかってぽつりとこう言った。
「今日は、“彼”ではないのか」
たった一言、マールーシャの言葉はゼクシオンの思考を停止させた。彼? 今日は? 何を言っているのだ?
「言っている意味が分かりません……彼、とは? 僕は、僕以外の何者でもない」
気を振り絞ってゼクシオンはマールーシャを睨み対峙する。
「答えなさい、マールーシャ。忌々しいこの痕を残したのは、貴方だったのですね?」
「忌々しいとは心外だな」
マールーシャは眉を顰めると、そのまま続けて言った。
「あれほどまでに愛し合った仲じゃないか」
歌うような物言いに気が遠くなりかける。ノーバディにとって最も無縁とも思える言葉が、ゼクシオンの虚ろな胸の内を抉る。いったい何を言っているんだ、この男は。
返す言葉が見つからないままゼクシオンが息を詰めていると、おもむろにマールーシャは自身の服に手を掛けた。何が起ころうとしているのかわからずに身を固くする。マールーシャは構わずにコートのスライダーを下ろすと、中に着ていたシャツの裾を捲った。警戒していたゼクシオンだったが、そこにあるものを見ると言葉を失った。
マールーシャの白い肌の上には、いくつもの赤い痕が咲いていた。肌の上に浮き上がる赤い痕は、自分の服の下のそれと酷似しているように見える。そしてあろうことか、腰骨の上には歯形まで付いている。この身体と、同じように。
この事態が何を表すのかわからずに、ゼクシオンは一層混乱した。マールーシャの言葉が脳裏によぎる。『あれほどまでに愛し合った仲じゃないか』――。
「これに見覚えがあるか」
しどろもどろになっているゼクシオンに構わず、マールーシャはゆったりと言った。手袋をしたまま、自身の腹をなぞるように指を這わせた。白い肌に黒い指先がくっきりと浮かび上がって、見たくもない男の身体から目が離せない。呼吸をすることすら忘れそうになる。
「脱げば分かるが、見える部分以外にも付いている。例えば背中。自分で付けるのは困難だ。貴方は自分の背中に付いている痕の数を数えたか」
そこまで言うとマールーシャは、ふと目線を上げた。妖しく笑みながら、彼は続ける。
「誰が、付けたと思う?」
赤い舌が、尖った白い歯の間からちらと覗いた。それを見た途端、ゼクシオンの脳裏に閃くものがあった。冷水を浴びせられたかのようにぞっとして立ち尽くしたのは、その赤を知っている自分を自覚したからだった。顔から血の気が引く一方で、欲するように体の奥が熱くなったのをごまかせなかったからだ。
「う、嘘だ……僕は知らない……僕――、」
わなわなと唇が震える。しかし言葉とは裏腹に、脳裏には次々と思い出される光景があった。誰かの息遣い、触れる肌の温度、身体を貫く熱さと、どうしようもない衝動。自分を見つめる、青い目。毎晩のように夢に見たそれらが、いま、目の前にある。
「――……僕が……?」
激しい眩暈に襲われゼクシオンは頭を抱える。
どうかしている。どうしてそんなことがあるというのだ。あいしあう、という彼の口から発せられた音が頭の中で何度も繰り返される。違う、愛してなどいない。愛なんて、知らない。
伸びてきた腕を弱弱しい力で何とか振り払う。頭痛が激しくなり、ゼクシオンは頭を抱えたまま蹲った。やめてくれ。もう自分には関わらないでほしい。まるで幼い子供のように小さくなって、震える身体を抱いて何度も呟いた。
どれくらいそうしていたかわからない。ふと何の気配も感じなくなったことに気付いて顔をあげると、部屋の中にはもう誰もいなかった。
全て夢であってほしかった。しかしそんな祈りも空しく、おそるおそる見たベッドの上に紅の花弁が散っているのを見付けた。白布を点々と彩る赤を目の当たりにした瞬間、かっと血が巡りだしたのが分かった。激情のままシーツを薙ぎ払うと花弁は嘲笑うようにふわりと舞い、音もなく空中に溶けて消えていく。シーツを握った自分の腕には、間違いなく今マールーシャが口付けたその証が新しく浮き上がっている。動悸がする。せわしなく辺りに目線を走らせるうち、ベッドサイドに置いていた睡眠薬の小瓶が目に入った。
無我夢中で瓶を掴んで手のひらに中身を出した。決まって飲む数よりも多く出てきたが、ゼクシオンはためらうことなくそれらを全て口に含んだ。必死に飲み下してから、布団を掴んで頭まで被る。震えが止まらない。こわい。空虚な胸の中に得体の知れない恐怖が渦巻いて止まらない。
こんなのは夢だ。いつもの気味の悪い夢の続きに違いない。僕は何も知らない。寝て起きたら、きっといつもの生活に戻れるはずだ。
言い聞かせるように、何度も何度も頭の中で繰り返した。固く目を瞑っても、瞼の裏に弧を描く赤い唇を思い出しては身体を強張らせる。知らない。なにもしらない。いつまでも一人でそう呟く。
やがて薬が効いてきたのか、猛烈な睡魔が襲ってきた。全身が仄暗い意識の底へと引きずり込まれていくような感覚。その向こうから、誰かがこちらに向かって手を差し伸べている。ああ、これでやっと、楽になれる。なぜそう確信しているのかわからなかったけれど、ゼクシオンもまたその手を取るべく手を伸ばした。
意識を手放す間際、初めて感じる解放感が自分を包み込んでいた。