密夜の約束 - 4/4



 薄暗い部屋に差すのは窓の外に光る月明かりだけ。夜の色よりも濃い闇の回廊が、静かに部屋に現れた。こんな時間にどうやら客人らしい。
 マールーシャが顔を上げると、小柄な黒コート姿の人物が静かに部屋の中に降り立ったところだった。ふらふらとして足元は覚束ないが、真っ直ぐマールーシャの方へと目的を定め、一歩ずつ向かってきている。そうしてベッドに腰掛けたままのマールーシャの前まで来るとおもむろにその歩みを止めた。目深に被ったフードの下からは静かな息遣いが聞こえる。マールーシャが腕を広げると、相手は素直にその中へと収まった。細い身体を抱き寄せると、気だるげにマールーシャの膝の上に腰掛ける。従順な様は、ついさっき目の当たりにした敵愾心剝き出しの彼の様子と一転していじらしいことこの上ない。

「もう、来ないかと思った」

 マールーシャがそう言うと、フードの下で相手も薄く笑ったのが分かった。
 顔を覆うフードを脱がせると、露わになった銀色の頭髪が窓から入る月の光を受けて鈍く色を放った。マールーシャが愛おしそうに名前を呼ぶと、相手も目を細めてこちらを見つめ返してきた。長く伸ばした前髪の間から覗く碧眼が蠱惑的に歪む。そこにいるのは機関の若き策士、ゼクシオンに他ならない。

「どうしてそんなことを言うんです? あれほどまでに愛し合った仲だというのに」

 小首を傾げる仕草はまるで小動物的でどこか庇護欲を掻き立てるが、しかしその物言いは挑発的だった。マールーシャも肩をすくめ、そうだった、と肯定する。ゼクシオンは満足そうにマールーシャの胸の中に身体を預けて力を抜いた。
 流れる銀糸のような細い髪の毛を梳きながらマールーシャは言う。

「“もう一人のお前”は、いよいよ事態に気付いているぞ。あれこれ嗅ぎまわっていたようだが、肝心なところには気付いていないらしい。自分の身体に残る傷と同じものが私の身体にもあると気付いたときのお前の怯え切った表情、実に愉快だった」
「あんまりいじめないでくださいよ、初心うぶなんですから」
「お前と違ってな。まったく、どっちが本体なんだか」

 ゼクシオンは答えずに、ゆったりと微笑んだだけだった。呼吸は落ち着いて、目の色もしっかりとしてきている。彼の自我が安定してきているのだろう。同じ姿をした相反する二人の立ち振る舞いを目の当たりにして、マールーシャは改めて不思議に思う。本人の口から説明をされても、俄かには信じがたい話だった――一人の中に二つの自我が存在しているなどという話は。

 

 彼曰く、きっかけは自身で配合した睡眠薬だという。これが初めての調合だったわけでもないはずだったが、どこで何を間違えたのか、服薬すると身体に異常をきたすようになり、それが続いたことによって薬の効き目と共にもう一つの人格が現れてしまったというのだ。機関員たるノーバディとして、日々研究や任務の遂行に明け暮れる勤勉な青年は表の顔。そして、夜な夜な現れてはマールーシャとの逢瀬を繰り返しているのは、新たに生み出された彼の裏の顔だ。
 摂取を続けていくうちにもう一人の自分は少しずつ自我を強めていった。自分の意志で身体を使って出歩くようになり、本体の意志と関係なく新しい自我で人と接していた。

 マールーシャが最初に接触したときも、もちろん裏の自我のゼクシオンだった。
 その夜、皆が寝静まった時間に外から戻ったマールーシャは、廊下で蹲っている機関員を見付けた。普段ほとんど関わることもないゼクシオンをどうするつもりもなかったが、見れば視線は定まらないし、顔色も優れずなにやらぐったりしている。放っておくわけにもいかず、ひとまず彼の私室へと連れて行った。ベッドに寝かせたところですぐに立ち去ろうとしたが、不意にコートの裾を掴んでゼクシオンは言った。

『従順なふりをして、何を企んでいるのだか』

 驚いて振り返ると、先程まで揺らいでいた視線から一転して目は据わっている。真っすぐにマールーシャを見つめる目は、謀反者を誹るような力強い光を放っている。
 こんなところで突如自分の行動を糾弾されるとは思ってもいなかったマールーシャは、ひとまず弁解を試みようとした。が、意外にも相手はそれ以上深くは追及してこなかった。

『貴方が陰で何を企んでいようが、今の僕にはどうだっていいことです』

 その言葉に嘘や芝居めいたものはないように思える。立場としては機関の中枢人物のはずなのに、どういうわけだか今の彼はどこかこのやり取りを楽しんでいるようにも見えた。マールーシャは自身の認識の中のゼクシオンとの相違に興味をひかれる。

『貴方、此処で退屈なんでしょう』

 そう言うと、ゼクシオンはコートの裾を握った手に力を込めた。引き寄せられるがままにマールーシャはベッドの上に膝をつく。伸びてきた腕が首に巻き付き抱くように寄せられたとき、触れる手の熱さに気付いた、けれど。

『妙なことを企てなくったって、僕が遊んであげますよ』

 そう耳元で囁く声はより熱を帯びていて、マールーシャの警戒と理性とを緩やかに溶かしていったのだった。

 重たい黒を脱ぎ去った彼は、大胆で享楽的だった。普段の陰湿そうな雰囲気からは想像もできない姿や表情にマールーシャは魅入られてゆき、彼の快楽に対する貪欲さを気に入った。

『もともと僕は欲求に従順ですよ』

 後になってそれを伝えたとき、ゼクシオンは澄ましてそう言った。

『知りたいことは調べ尽くさないと気が済まないし、そのための手段は惜しみません』

 それは確かに普段のゼクシオンの表の性格そのものと言えた。寝食を忘れて研究に打ち込む姿は機関内でも時折見られたし、彼と付き合いの長い者はそんな愚直すぎるところを嘆いていたりもした。

『欲しいものだって、手に入れる努力はしますよ』

 妖艶に笑うとゼクシオンは手を伸ばしてマールーシャの髪の毛に触れた。ゼクシオンを腕の中に囲いながらマールーシャも満足げに目を細める。

『我々は気が合うのかもしれないな』
『どうだか』

 蠱惑的に振る舞うくせにこちらから歩み寄ろうとすると一転して素っ気ない。そんなところさえもまた良かった。

 

 逢瀬のたびにゼクシオンは小さな痕跡をねだった。服の下に隠れるところ、けれど必ず目に付くところに欲しいのだという。言われるがままに赤く跡を残してやれば、施された場所と同じ場所に、ゼクシオンもまたマールーシャに同じように印を付けた。

『この痕が消える前に、また会えたらいいですね』

 白い肌の上に咲く赤を細い指で撫でながらゼクシオンは言う。気の済むまで互いを貪り尽くした後、まだ熱の残る肌の上に唇を寄せて咲かせた赤だ。

『それはお前の匙加減なんじゃないのか』

 いつも約束も予告もなく部屋に現れる彼を迎え入れることで成り立っていた二人の逢瀬にマールーシャが疑問を抱いて問うと、その時ゼクシオンは初めてマールーシャにもう一人の自分の話をした。自身の中にある相反する二つの自我のこと、きっかけはおそらく自身で配合した睡眠薬によること。睡眠薬を手にするのがもう一人の自分の采配によるものであるため、自分でもなすすべがないのだということ。

『だからこうして、目に見える形で何かを残しておくんです。記憶には残らなくても、身体が思い出せるように』

 そう言いながらゼクシオンは再びマールーシャの胸元にそっと口付けると、濡れた唇で強く吸い上げた。そこに残された赤を見る目は満足そうだ。

『ああマールーシャ。僕のことを、忘れないでくださいね』

 こうして本人の意識の他所で、二人の密会はずっと続いていた。

 

「先程対峙したときのお前は精神的にも肉体的にもかなり限界が近い様子だった」
「そのうえろくに話したこともないはずの貴方が目の前に現れて圧し掛かっていたのではね……我がことながら同情します」
「彼は今後……」
「さあ。でもきっと、時間の問題でしょうね」

 仮にも自身のことなのに、ゼクシオンはまるで他人事のように飄々と言ってのけた。薬を飲み続けていれば裏の自我が勝り、しかし薬を断てば疑心に囚われ自分を見失う。その行く末は、今ここにいるゼクシオンも薄々予見しているようだ。

 ゼクシオンが静かになったので見れば、袖を捲り腕に視線を落としていた。じっと見つめる先の手首の内側には、先程マールーシャがつけたばかりの赤い印がくっきりと浮き上がっている。

「“僕”に手を出すなんて悪い人」
「愛人のようで楽しかった」

 肩をすくめて見せるマールーシャにため息を一つくれると、ゼクシオンはマールーシャの手を取り同じ場所に口付けた。いつもと同じように。ずっと守り続けてきた、二人だけの約束を守るように。

「もう、必要ないのでは?」

 表の自我が今のゼクシオンに飲み込まれてしまうのは、彼の言う通り時間の問題のように思えた。彼の余裕に満ちた振る舞いを見るに、或いは、既に。

「でも貴方、赤がとても似合うんですもの」

 くっきりと色づいた新しい印を見てゼクシオンは満足そうに嗤う。
 頬を撫でると、手のひらに顔を寄せたゼクシオンはうっとりと呟いた。

「ああマールーシャ、“僕”のことを、忘れないでくださいね」

 

 たとえその自我が、消えてなくなってしまったとしても。

 

20211106