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暇つぶしに見ていたドラマのエンディング曲を聞き終える前にテレビを消す。不思議なもので、やらねばならぬことがあるときほど普段は目もくれない“暇つぶし”ははかどるものだった。賑やかなメロディがふっつりと立ち消え、静まり返った室内で外の音に耳を傾けるが、雨の降っている音はしないようだ。出掛けるなら今だろう。ゼクシオンは重い腰を上げると、何度となく先送りにした出掛ける準備にようやく取り掛かる。今日こそは、ため込んだ洗濯物を消化するためにコインランドリーに行かねばならないのだった。
溜めた洗濯物を持って出掛けるのが面倒で、雨の中出掛けるのも煩わしく、この番組が終わったら……そう先延ばしにし続けて、時計を見ればいまや時刻は深夜目前。憂鬱だけど、これ以上先延ばしにはできない。そろそろシーツだって替えたいし、予報によればこの先しばらく日の光は拝めそうにない。気象庁はつい先日梅雨入りを発表した。こんな時間に他人と居合わせることもないだろうし、どうせ行くのなら、まとめて洗いに出して乾燥まで済ませてしまおう。
そう考えながら支度をして、洗濯物を詰め込んだ大きなビニールバッグを抱えて家を出た。外は真っ暗だった。日が沈めば暑さはいくらかましだけれど、襲い来るまとわりつくような湿気にゼクシオンは顔をしかめる。やけに湿度が高いと思えば霧雨が降っていた。道理で雨音がしないわけである。傘を差すと空いた手でバッグを前に抱え、外へと踏み出す。霧雨は苦手だ。傘をさしていてもあちこち濡れるし視界も悪い。
家を出て、駅とは反対方向へ進む。電柱に付いた防犯灯の明かりのほかは明るいものもない。そんな道を五分も進めば、お目当ての施設はもうすぐこそだ。すっかり消灯している住宅地の並びでぽつんと蛍光灯の光を放っている四角い建物が見えてきた。到着する頃には雨脚が強まっていた。細い庇の下ですっかり濡れた傘を閉じてから軽く振り水滴を飛ばして外の傘立てへ差し込むと、がたがたになってしまっている引き戸を引いて中へ入った。蛍光灯がついているにしては薄暗く、がらんとしている。誰もいないのはいつものことだ。大きな洗濯機が四台、乾燥機が二台。どれひとつとして稼働しているものはない。室内は狭く、中央にちょっとしたものを置くテーブルと、端に二、三人が横並びに座れそうなベンチがひとつあるのみ。白っぽい蛍光灯は切れかけているのかちりちりと音をたて時折ちらついている。こんなさびれたコインランドリーを利用しているのは自分くらいだろう。ここで誰かと居合わせたことなどこれまでに一度もなかった。
本当は洗濯と乾燥をひとまとめに行いたいけれど、独立した洗濯機か乾燥機しかないのがこの場所のネックだ。駅の近くのもっと大きなコインランドリーは最新の洗濯乾燥機があるし、明るく広く、清潔感もあって快適だ。その代わり、大抵人がいる。下着などはここでも持ち込まないけれど、洗濯物といういかにも個人的なものを人前で出すことに抵抗があるため、その点で言えばこのおんぼろコインランドリーは都合がいい。古めかしいのを理由にほとんど人が来ないからだ。こんな深夜でなくとも、誰かが入っていくところすら見たことがない。古いけれど決して衛生面での問題はないし、あまり誰かの直後には使いたくないと思っているゼクシオンにはなおさら丁度良かった。唯一残念なことといえば、古すぎるあまり閉鎖が決まっていること。このコインランドリーは今月いっぱいで営業終了だった。古いなりに懇意にしていたので残念である。駅前の方に厄介になることにしようか、今後のことはまだ決めかねている。とりあえず梅雨の間営業を続けてくれるのは経営者の良心なのだろう。
ドラムのリフレッシングをしてから自分の洗濯物を放り込んだ。今日はシーツもあるので、乾燥まで終えるのにそれなりに時間を要するだろう。普段待ち時間をこの場で過ごすことは少ない。食事を済ませに出ることが多いがこんな時間までやっているところは限られているし、今日はとりわけ遅いのでもうどこもやっていない。一度帰宅してもよかったけれど、雨も降っている中何度も往復するのも躊躇われ、ゼクシオンはこのまま室内で待つことにした。もとよりそのつもりだったから今日はちゃんと時間つぶしのための本も持ってきている。
端の欠けたプラスチックのベンチに腰掛けて、しおりの挟んだページを開く。山奥の地下建設に閉じ込められてしまうミステリーだ。ずっと読みたかった本なので、誰にも邪魔をされないまとまった時間をむしろ嬉しくも思う。物語の世界に入り込めば時間の立つのなんてあっという間だった。洗濯機が回る単調な機械音の中ですぐに没頭していった。洗濯を終え乾燥機に移し替えたあとはすっかり物語にのめり込んでいて、外に他者の気配が近付いていたことに少しも気付いていなかった。
ガラガラ、と引き戸を開ける音がしてゼクシオンは飛び上がるくらい驚いた。見ると、傘を閉じながら男性客が一人入ってきたところだった。視界に飛び込んできたそのシルエットは背が高く、結わえた髪は男性にしては長い。深夜の古ぼけたコインランドリーで、その男性の桃色の頭髪は文字通り異彩を放っていた。まさかこんな時間に自分以外の客が来ると思っていなかったので、すっかり自宅のようにくつろいでいたゼクシオンはほとんど立ち上がりかけるくらい動揺した。あまりにもわかりやすく動揺を見せたので、相手も思わず、といった様子でこちらを見た。二人の目が合うと、相手は少し申し訳なさそうに微笑んで会釈した。気まずさに視線を外しながらゼクシオンも小さく会釈を返すと、本を抱えなおしてベンチの端の方へと音もなく移動した。
うっかりページを閉じてしまったので、読んでいたページを探さねばならなくなった。パラパラとページを繰りながら、今入ってきた男の様子を横目でそっと窺う。ここを利用するのは初めてなのだろう、慎重に辺りを見渡して様子を窺っている。洗濯機のエリアを見付けると、こちらに背を向けてその方へ向かった。ナイロンのボストンバッグを開けると、取り出したのはタオルや衣類だった。スポーツジム帰りか、とゼクシオンは見当をつける。最近になって駅の近くに二十四時間営業のマシン専門ジムができたと自宅にも広告が入っていたのを思い出した。男性の格好は確かにジム帰りを思わせるラフなもので、体格がよく、半袖、ハーフパンツの裾から覗く長い四肢に隆々と筋肉が見えた。華やかな頭髪から中性的な印象を持たせながら体格はしっかり男性的で、そのギャップに思わず凝視してしまう。
機械音が鳴り、自分の乾燥が完了したことを告げた。本にしおりを挟んで立ち上がるとテーブルの上にバッグを広げ、黙々と洗濯物を取り込んだ。シーツをたたみながら再び男性客の方を盗み見ると、無事に洗濯を開始できたようで、自分と入れ替わるかたちでかたわらのベンチに腰掛けていた。雑誌のようなものを開いて、それに視線を落としている。どうやらこのまま此処で洗濯が終わるのを待つらしい。いいタイミングで自分の方が終わったなとゼクシオンは内心安堵の思いだった。こんな時間にこんな狭い空間で、知らない人と長時間黙って過ごすのはまっぴらだった。
組まれた足の長さにまた見とれた。くつろいでいる、というよりはけだるげな様子だ。こんな所帯じみた環境なのに、なんだか絵になる。四肢は長いし背も高い。あまりよく見えなかったけど、顔の造形も整っているように思えた。モデルか何かだったらすごい。有り得なくもないように思えた。
荷物をまとめるとゼクシオンは出口に向かう。男性客はこちらには目もくれずに雑誌を眺めている。ゼクシオンもとくに挨拶を交わすこともなく、引き戸に手をかけ内側から外に目を凝らした。外はまだ暗い。雨はやんだのだろうか。音はしないけれど、霧雨が続いているような気もした。さっきの男性客も入ってきたときに傘を閉じていたし、また帰宅まであちこち濡れるのだろうと思うとげんなりした。帰ったらシャワーを浴びよう。濡れた服は明日自宅で洗濯だ。これくらいなら自宅でも干しておける。
ガタガタと音を立てて引き戸を開ける。やっぱり霧雨だ。落胆の思いでばさりと音を立てて傘を開いた。この身が雨に濡れようとも、乾かした洗濯物だけは死守せねばならぬ。決意の気持ちでバッグを胸の前に抱えると、建付けの悪いドアを閉めようと振り返った。その際、つい先程の男性客の方をまた見てしまった。どうせ変わらぬ姿勢で雑誌に夢中だろうと思ったから。
ところが、ゼクシオンは思わず傘を取り落としそうになった。
相手がこちらを見ていたのだ。先ほどと変わらぬ姿勢で、けれど顔をあげて真っすぐにゼクシオンを見ている。間違いなく目が合った。ほとんど声が出るかと思った。肩がびくりと反応したのが分かってしまったかもしれない。
あまりの気まずさに傘で顔を隠すようにしてゼクシオンは足早に雨の中へと踏み出していった。霧雨が身体を濡らすのも気にならず、逃げるようにその場を離れた。
信じられないほど鼓動が速かった。目が合ってしまって驚いていたのもある。思った以上に整った顔立ちだった。真っすぐに自分を見ていたその眼差しに、射抜かれてしまったように感じていた。