雨乞い - 4/4

 
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 週末は泊りで家を空けるので、前夜のうちにまとめて洗濯を済ませておこうと思ったその夜、ゼクシオンはまたコインランドリーに向かっていた。どうせ誰もいないとわかっていながら、いつものように深夜を待って家を出た。
 家を出た瞬間の濃い雨の匂いに気付かなかったわけではない。けれどどうせ近場だし、と傘を持たずに出掛けたら、半分くらい来たところでぼつりと大粒の雨が鼻先にあたった。まずいなと思い足を速めるもあれよあれよという間に途方もない大雨に発展し、辺りが何も見えなくなってしまうくらいの豪雨となった。洗濯物の入ったバッグを胸に庇い、雨でほとんど何も見えない中でぼんやりと光る蛍光灯を真っすぐに目指して走った。雨の音の中に、自分の荒い吐息だけがやけに大きく聞こえる。一瞬にしてどうにもならないくらいずぶ濡れになってしまい、たまらずにゼクシオンは建物の中へ駆け込んだ――先客がいるとも知らずに。

 濡れて張り付いた前髪を掻き分けて顔をあげた瞬間、あ、と思わず声を漏らしていた。誰もいないであろうと思っていた先に人がいたのにも驚いたし、その相手が、この前まさにこの場所で居合わせた美麗な男性だったのにも驚いた。
 男性は突然の乱入者に面食らった様子で呆然と目を見開いてこちらを見ていた。きっと自分のように、ひと気のなさを気に入ってここを利用するようになったのだろう。そんな矢先に全身ずぶ濡れの人間が飛び込んできたのだから、そりゃあ驚かない方がおかしい。
 輪をかけて驚いたことに、なんと彼の方から話しかけてきた。

「ええと……大丈夫? ものすごく濡れているようだけど」
「え、ええ、急にすごい雨で」

 予想外に話しかけられて動転し上ずった声でゼクシオンは返答した。うっかり目が合ってしまった手前、相手も声をかけざるを得なかったのだろう。情けない気持ちで服の裾を絞っていると、男性は立ち上がり、硝子戸に近寄って外を眺め唸った。

「降り始めたかとは思っていたが……うわ、これはすごいな」
「降ってきたと思ったらすぐひどくなって。たった数分の距離なのに、この有様です」

 ゼクシオンはそう言って苦笑する。せっかくシャワーを浴びてから出てきたのに、風呂上がりよりも濡れていた。髪の毛からは滴り続けているし、まるで着衣のままプールに飛び込んだかのようだ。彼は何か言いたげであったが、ちょうどそのとき乾燥機終了のブザー音がしたので、そのままドラムの方へ行って洗濯物を回収し始めた。
 心拍数が上がったままだった。走ったせいもあり、急な再会に驚いたせいもある。そのうえ話しかけられるなんて。驚きは徐々に高揚へと変わっていった。まさかまた会うことになるとは。とはいえ、また同じような時間帯を狙えば彼のジム通いと自分のコインランドリー通いが一致するのはありえなくない話である。まさか言葉を交わすことになるとは思っていなかったけれど。
 こんな無様な格好でなければと思わずにいられないが、逆にこんな事態だからこその展開なのかなとも思う。雨に降られていなければ、こうして彼と言葉を交わすきっかけもなかったかもしれない。

 話しかけられたときの相手の声を思い返した。深い声色は想像よりももっと低かった。華やかな髪色や顔立ちからイメージしていたのは中世的な雰囲気だったのに、しっかりと男性のそれだった。反芻するとぞくぞくする。もう一度声が聞きたい、などと考えていることに気付いた。馬鹿なことを。この後彼はもう帰るだけだ。そんなことを考えながら、物惜しい気持ちで彼の後姿を眺めた。今日の格好も以前と同じようにスポーティなものだった。以前結わえていた髪の毛は今日は解かれており、豊かな桃色の毛先は柔らかく跳ねていた。湿気も相まって癖が強く出ているのかもしれない。
 濡れねずみな自分は何となく隅の方で彼が作業を終えるのを待つことにした。洗濯物を鞄に詰めたらもう彼はすぐ去るだろうから、いっそこの濡れた服も洗いに出してしまおうか、とぼんやり考えていた。じっとしていると服の下を雨雫が流れる感覚に思わず身震いをしたくなる。

 

 ぼうっとしていたら、目の前に白いものを差し出されて我に返った。見ると、男性がタオルを手にしてこちらに向かって立っていた。

「これ、よかったら使ってくれ。私物で申し訳ないけど、ちょうど今洗い終えたばかりだ」
「え、えっ、いえ、そんなわけには――!」

 しろどもどろになってゼクシオンは顔の前で手を振る。見ず知らずの人が立った今終えたばかりの洗濯物を借りるなんて。けれど眼前の乾いた柔らかそうなタオルは、その時の状況からしてなんと魅力的に見えたことか。思わず目が離せないでいると、彼もその意をわかった表情で頷いた。

「そんなに濡れてしまって、さすがに放っておけない」
「でも」
「せめて水気を取ったらいい。このままだと風邪をひいてしまう」
「……すみません、では、お借りします」

 彼の方も譲らないので恐縮して頭を下げると、その拍子にまだぽたぽたと水滴が髪の毛を伝って足元に落ちた。彼は微笑んでタオルを手渡してくれた。
 受け取ったタオルは乾燥を終えたばかりでまだあたたかく、肌に押し当てると強張った緊張が少し和らいだ。なにやらいい匂いがする。コインランドリーの洗剤独特の不自然な甘さとは違う、おそらくは彼がいつも使っている洗剤やらが沁み込んだ香り。髪の毛の水気を取りながら、気取られぬようこっそりと、その香りを深く吸い込んだ。彼はまだ硝子戸から外を眺めている。

「しばらく降り続けるだろうか。実は、自分も傘がないんだ」
「急でしたものね……なんだかさっきよりひどくなっているようですし。……ああ、ちょうど雨雲の厚い部分が差し掛かっているみたいです」

 あらかた水気を拭き取って落ち着いてから、スマートフォンを操作して雨雲レーダーを確認しながらゼクシオンは言った。当面雨が止む気配はなさそうではあるが、しばらく待てば豪雨地帯は抜けるように思えた。
 ゼクシオンは顔をあげて相手を見上げる。

「落ち着くまで此処にいた方がいいかも。傘が無いなら、なおさら」

 たった五分程度の距離を走った自分ですらこのざまなのだ。彼が雨に打たれて帰るのは全くもって似合わないしそんな場面は想像が出来なかった。
 ゼクシオンの提案に彼はふわと微笑んだ。

「それが得策のようだな。いいだろうか、ここで一緒に待たせてもらっても」
「も、もちろん」

 改めて聞かれると緊張した。彼が微笑みかけるのに、直視できなくてタオルで顔を拭うふりをしてまた目を逸らした。

 

 

 洗濯を終え乾燥を始めても雨はなかなかおさまる気配を見せなかった。風さえ出てきたようで、時折硝子戸に打ち付ける雨音は強くなる一方だった。借りたタオルを肩から羽織るようにして、知らない男性と二人でベンチに並んで腰掛けている。思ってもいなかった展開だ。窓の外を眺めているようで、硝子戸に反射して映る自分たちの姿ばかりに目がいった。彼は姿勢よく座っていて、いつもなら猫背気味の自分も心持ち背筋を伸ばして座るなどしている。意識せずにはいられなかった。

 単調な機械音を背後に聞きながら、辺り差しさわりの無い話をぽつぽつとした。やっぱりスポーツジムを利用した帰りで、ひと気のない場所を狙ってここを使いだしたのだと彼は話した。

「鍛えてるのって役作りとかなんですか」
「役? 何の?」
「あ、いえ……モデルか俳優なのかなと思って」
「そんなふうに見えるかな」

 彼は軽く笑って、けれど否定をしないので結局よくわからないままになった。流行りの芸能人なんて全然わからないけれど、彼がテレビや雑誌の一面を飾れば注目を集めそうだと思った。今度本屋で雑誌を見てみようか、なんていう気にまでなっている。彼は不思議な魅力を振りまいていた。

 初めて会ったときのことも彼は覚えていた。

「人がいて驚いたが、それ以上に驚かせてしまったようで悪かった」 振り返って彼は笑う。
「僕の方こそ気を抜きすぎていました」 ゼクシオンは苦笑を返した。
「ここは便利だ。通り道だし、古いが人がいないのがいい」
「わかります……でも」
 ノスタルジックな気持ちで、足元に視線を落としてゼクシオンは独り言のようにつぶやく。
「廃業してしまうんです、ここ。来週にはもう」
「ふうん」

 そう言ったときの彼の反応は、不思議なものだった。わかりやすく張り紙があるし彼自身そのことを知らなかったわけではなさそうだ。惜しむでもなく、静かに受け入れるような反応だった。ちらりと横目で相手を見やるが、彼は思案にくれて窓の外を見ているようだった。或いは、何も見ていなかったのかもしれない。

 彼が話すのに相槌を打ったり返答をしたりしてぽつぽつと会話は続いたけど、雨は一向におさまる気配もなく、遠くからは雷の唸りまで聞こえてくる始末だ。彼もまたどうにかして帰ろうという意思は見えなかった。ここから家は遠いのだろうか。五分程度の自宅からですらこんなに濡れてしまうのだから、傘なしで帰宅を試みるのは確かに得策ではない。会話の節々でそんなことを考えながら、うつむいてばかりいた。話の折に彼の方を見るとじっと見つめられることが多くて、その目線の強さにおののいて目を逸らしてしまう。そんなことを繰り返した。
 彼も同じ気持ちでいたりして、なんていう都合のいい考えがよぎる。同じ気持ちというのはつまり、この時間を少なからず心地よいと思ってくれているということだ。見ず知らずの男を相手にタオルを貸してくれたりあれこれと話をふってきたり、少なくとも嫌悪感は持たれていないだろうとゼクシオンは考える。

 不思議な時間の流れ方をしていた。いつも長くてかなわない洗濯乾燥の待ち時間も苦ではなかった。むしろ、まだこの時間が終わらなければいいのに、なんて思っている。彼が話す深い声色に耳を傾けているだけでも心地よかったし、容姿端麗な相手が隣にいるというのも、実のところ気分がよい。このまま雨がいつまでもやまなかったらどうするんだろう。自分が自宅まで戻って傘を取ってきて貸すとか? どうせもう濡れてるし、それもありな気がする。そうしたら、傘の貸し借りを口実にまた会えるかも……なんて考えている自分がいる。

 またあう? なんのために?

 

 現実に引き戻すようにスマートフォンが振動したので見ると、明日会う約束をしている相手からの連絡だった。ものすごい雨だね、そっちは大丈夫? 明日は会えるだろうか、といった内容が書かれていた。この場で返事をするか悩んだが、心配してくれている様子が快かったので簡潔にメッセージを送ることにした。傘を持たずに出先で雨に降られてしまって立ち往生してること。明日には落ち着くといい。会えるのを楽しみにしてる。そんなメッセージをこちらから送ると、その場で見ていたようですぐにまた返事が来る。暇なら通話でもしないか、と書かれているのを見てふっと頬を緩める。いい提案だと思った、もしも自分が今一人ならばの話だけれど。彼もまさか、見ず知らずの人物と二人きりで籠城しているとは露ほども思っていないことだろう。まだ付き合ってもいないというのに、他の男性とふたりきりでいることが――そしてこの時間を居心地よいと感じていることが――どこか後ろめたく思われた。ひとまず、あとで自分から連絡すると返事をしようか――。

 返信の文言を打ち出している折り、ふと視線を感じて顔をあげると、隣に座っている彼がこちらを見ていた。なにやら含み笑うような表情。これまでの大人びた様子からすると妙に俗っぽい表情にどきりとしてゼクシオンは相手を見つめ返した。

「あの、なにか?」
「楽しそうだなと思って」
「ああ……」

 彼が悪びれなく言うのに、困ったようにゼクシオンはへらりと笑った。浮き足立った気分が顔にまで出ていたのだろうか。だとしたら恥ずかしい。

「すみません、知人から連絡が来ていて」
「構わないよ、どうぞごゆっくり」

 彼がそう言って続きを促すような仕草をするので、ご厚意に甘えることにしてゼクシオンは再びスマートフォンに目を落とす。

「このメッセージだけ送ってしまいますね」
「続けていてくれて構わないのに。彼氏?」
「いやそんなんじゃ……

 ……え?」

 何気ない調子で投げかけられた言葉に、一瞬理解が追い付かなかった。頭の中にその意味がじわじわと浸透してくると、次にゼクシオンの身体は硬直する。さっと顔から血の気が引いていく感覚がそのまま流れるように全身に伝わる。忘れかけていた濡れた衣服の触れる冷たい感触が唐突に肌に甦る。いま、彼はなんて言った?

 一瞬頭が真っ白になったあと、今度はすごい勢いで回転を始める。恋人、ではなく、彼氏、と断定した。何故、相手が男だと思ったのだろう。これまでの自分の行動にそう思わせる言動があっただろうか? あるとしたら、彼とのやり取りに他ならない。彼への視線? じろじろ見すぎていた? そういう視線で彼のことを見ていると思われたのだろうか。彼へ送る視線に、全くその気がなかったといえば嘘になる。そんなに不埒な思いが視線にまで表れていたのかと思うとぞっとした。スマートフォンを持つ手が震えそうになる。メッセージ画面はいまやすっかり沈黙してしまっていた。
 彼はこちらの気など知らずか愉快そうで、ゼクシオンの反応を楽しんでいるように見える。

「その様子だと、まだ付き合うには至らずといったところか……それはいいことを聞いた」
「あの、どうして相手が……その……」
「なんとなく」

 気の抜けるような曖昧な返事に足をすくわれたような気になる。変に意識して妙な反応を見せたりして、これでは自分が勝手に墓穴を掘っただけでは?

 けれど彼が「しいていえば、」と続けた言葉の先は、

「――同種の勘とでもいうのかな」

 その言葉を聞いてゼクシオンは目を見張った。衝撃の陰で、やっぱり、と思う自分がどこかいた。
 彼はこちらの反応を楽しむように椅子にもたれて眺めていた。血色の良い薄紅色の唇が弧を描いてから、ゆっくりと開く。

「君がずっと私を見ていたことはわかっていたよ」

 張り詰めていた緊張がぷつりと切れたようにゼクシオンの身体から一気に力が抜けた。自分の下心が透けて相手の目に映っていたことがわかると、襲い来る虚脱感に長い息を吐いてからゼクシオンはベンチに沈み込む。手からスマートフォンが滑り落ちてタイルの床に落ちるのを、身を乗り出して拾い上げたのは彼の方だった。すぐ横にあるテーブルに画面を伏せて置くのをぼんやりと見つめながらゼクシオンは呟く。

「引きましたよね」
「どうして? 同じだと言っただろう」

 そういうと彼は少し身をかがめて下から覗き込むように目線を合わせた。

「なんとなくわかるものだよ。君の方こそ気付いているかと思った」
「それは……」

 曖昧に返事をしながらゼクシオンはうなだれる。いたたまれなくて目を逸らそうにも、もう逃げられそうになかった。

「バイセクシュアルなの?」
「違います……同性だけ」

 諦めてゼクシオンはそう告げた。彼の目を見て話すのも、もう怖くなかった。彼の目の色が美しい青色だと知った。品定めをするようにこちらを探るその目の奥にある感情を探りたくて、ゼクシオンは少し姿勢を正す。

 

 この人とどうにかなるだなんて考えられなかった。手の届かないところにいる人だと思っていたから。けれど今、こんなに近くにいて、ここには二人しかいなくて、手を伸ばせば簡単に触れることができそうな距離にいる。二人の間にあると思っていた、透明だけれども分厚いと感じていた隔たりは、今この少しのやり取りで簡単に崩落してしまった。
 結局のところ、自分は最初から彼のことをそういった目で見ていたのだ。この人とどうにかなりたいと感じていた心理をゼクシオンは今更ながらに自覚する。

 それに、最初からそうだったじゃないか。彼だって、僕を見ていた。

 

 あんなに冷え切っていたのに、いつのまにか顔が熱い。外側と内側の温度差で湯気が出ているんじゃないかと思うくらい。熱気が、熱意が、相手に伝わってしまうんじゃないかと心配になるくらい。
 相手の手が顔に触れると、触れた指先の熱さに自分の肌は冷え切っているままだと気付いた。僅かに触れた部分の温度差が心地よい。頬に指先からてのひらへと、触れる部分が広がっていく。雨の音なんかもう聞こえなかった。耳の奥にどくどくとなる血の流れが、ためらう気持ちの陰から本心を後押しする。
 どうしよう、いいのだろうか、という躊躇いがほんの一瞬だけ脳裏をよぎった。けれどこちらを見つめる青い目に囚われ、ゼクシオンは好奇に負けて身を乗り出した。一瞬周囲が白く光ったような気がしたけれど、そんなことなど構わず――。

 

 ――しかし次の瞬間、轟くような爆音に続いて、ばつんと音がしてすべての明かりが視界から消えた。

 突然だった。何もかもが見えなくなった。一定のリズムで動いていた乾燥機すら、徐々にスローダウンして音が止んでいく。

「な、何……?!」

 まるで世界の終わりがきたかのような事態にゼクシオンは何事かとパニックに陥りかける。混乱していると、停電だな、と彼の落ち着いた声がした。そこでようやくあの轟音が雷の音だったのだと知る。
 ふっと視界の端が明るくなったと思うと、スマートフォンの画面が桃髪の彼の横顔を照らしていた。

「今の落雷の影響だろう。このあたり一帯で停電してしまっているようだ」

 外の街灯までも消えてしまっているようで一帯が真っ暗だ。顔をあげてもどこからが外なのかわからないほど暗い。
 机の上に伏せていたゼクシオンのスマートフォンが振動したので手に取ると、やり取りをしていた彼から追って連絡が来ていた。向こう方も停電したようで、こちらの安否を心配するメッセージが送られている。暗闇の中で明るいその画面がやけに目立つ気がして、何故だか強烈に後ろめたい気に駆られゼクシオンは慌ててメッセージアプリを閉じた。そうしてそのまま再び機器を机の上に伏せた。隣りの彼の方をそっと見やるが、まだスマートフォンに目を落としている。その目は、緊急事態に際して真剣そうに見えた。

 急に現実に引き戻された。ひとときの甘い雰囲気などまるきりなかったことのようになってしまっていて、ゼクシオンはがっかりした。けれどその気持ちに気付いてから慌てる。自分はなにをしかけてたんだ?

 ゼクシオンは立ち上がると、止まってしまった乾燥機に近寄った。手をかけてみたが、乾燥の途中で電力が落ちてしまったせいかロックがかかったままだ。

「え、これどうしたら」
「電力が復活したら開くんじゃないか。どのみち、乾燥機の熱が冷めるまでは開かないと思う」

 そう言う彼の声が背後から聞こえた。思ったよりも近くで声がしたのでゼクシオンは思わず振り返った。いつの間にか真後ろに彼が来ていた。今この場を照らす光は彼の手の中の画面から発する明かりのみだった。白い画面の光に照らされて、青い目が暗く光っていた。その中に、真っすぐ見つめ返している自分が映っている。

 

 なかったことになんてなっていない。

 彼が黙ったまま両腕を自分の横についたので、身動きが取れなくなった。逃げられないことへの高揚が背筋を貫く。
 彼の手がスマートフォンの画面を消灯させると、再び真っ暗になった空間で相手の気配をこれまでのどの瞬間よりも近くに濃く感じた。立ちのぼる男性的な、なのにどこか甘い香りに脳が痺れ、見えないはずなのにゼクシオンは自然に目を閉じて身を乗り出した。きっと相手も同じだと思った。

 

 唇にあたたかな熱を感じたとき、降り続ける雨が硝子戸を激しく叩く音のほかに聞こえるものはなかった。冷えきった身体に触れる相手の体温が心地よく、全てを委ねてしまいたい気持ちに駆られる。寄りかかったら壊れてしまわないだろうか、この瞬間が。そう思いながらも自身の欲求に抗えず、ゼクシオンはおそるおそる相手に身体を預ける。相手に受け止める意思があることがわかると、気をよくしてそのまま唇をそっと開いた。舌先が触れた瞬間、相手を欲する気持ちに火がついてしまった。押さえ付けていた感情が、堰を切ってあふれ出した瞬間だった。
 濡れた身体を押しつけ、腕を回して相手の分厚い体躯を囲う。彼が、どこにも行ってしまわないように。雨の音ではない水音が耳の奥に直接響いて、それだけでもう夢中になれた。そうしてからは相手の力の方がぐんと強くなった。しがみついていた身体を押し返され、背骨が背後の乾燥機にあたって軋む。身動きが取れないまま、どんどん相手の意のままに翻弄されていくのがよかった。相手の意識が間違いなく自分に向いていることがたまらなく快かった。舌先と、指先と、てのひらと、触れる部分はどこも熱く、もどかしいくらいの熱情にゼクシオンは無我夢中で相手にしがみついた。自分の濡れた服で相手が濡れてしまう。そんな気を回せたのはほんの一瞬。伸ばした指先が服の下の体温に触れたら、もう欲しくてたまらなくなった。彼の、からだの内側に秘めたものを知りたい。

 いったいいつからこんなに彼を欲していたんだろうと思う。けれど、きっと本当は、一目見たときから惹かれていたのだ。

 彼の身体が自分の下肢を割ってさらに深く交わると、押し付けられた熱は身体のどこよりも熱く硬くなっていた。もっと深く、と思って自ら膝を開き、ゼクシオンも自分の脚を相手の脚に絡めた。抱き寄せられた拍子に肩に羽織っていたタオルが床に落ちてしまったけれど構ってなどいられなかった。それどころか、それを引き金にゼクシオンは更に大胆になった。着ていたTシャツすらも脱ぎ捨てた。触れる熱を素肌に受けたかった。煩わしかったものをようやく脱ぎ捨てて彼の腕の中に戻ると、もう抜けだせない。泥濘に足を取られるような、背徳から陥落する瞬間の暗くほの甘い悦びに、身も心も囚われてしまった

 掻き抱いた彼の服の裾から手を差し入れて背中をなであげた。じかに触れる肌の熱がたまらず、彼も脱げばいいのにと思い衣服を握ったけれど、そのつもりはないのか腕はゼクシオンに回されたままだ。もどかしい思いで首筋に唇を押し当てねだるように強く吸うと、くくっと喉を鳴らして彼が笑うのが聞こえた。

「初心かと思えば、随分手慣れているんだな」

 相手が低い声で耳元で囁いた。呆れたような、でもこの状況を愉しんでいる様子が聞いて取れる。ゼクシオンは黙って首を振った。手慣れているなんてとんでもない。こんな真似、今まで誰にもしたことがない。何かがおかしくなっていた。けれど、欲しくてたまらないのだ。出会ったばかりだというのに何故だかずっとこうしたかったという気持ちがあった。そうして今その思いが満たされようとしていることに、もう一寸も止まれないでいる。

 暗いせいできっと彼には伝わらなかっただろう。とんでもない男だ、とつぶやいた彼は、急に腕を掴んでもたれていた乾燥機からゼクシオンの身体を離した。強い力で引かれるままに、部屋の中央にあった小さなテーブルの上に両手をつかされた。何が起こるのかと思うより先に、覆い被さるように再び背後に彼の熱を感じた。どきんと心臓が跳ねた。止める間もなく、彼の手が自分が下に着ていたものに掛かった。ベルトもボタンもない、柔らかく身体を覆うためだけのそれを簡単に押し下げてその役割を奪ってしまった。ひやりと空気に触れたと思ったのもわずか、次にはずっしりと重量感のある熱の塊を尻の間に押し当てられた。ただそれだけで、ああ、と声が漏れた。あまりに熱くて火傷でもするんじゃないかと思った。期待が最高潮に高まる。手を伸ばしてその熱の塊に触れたいと思ったが、机についた両手の背を彼が同じような姿勢で上から抑えていたので叶わない。耳元に呼気を聞くと、彼の息も荒々しくなってきている。

 何もできないでいるうちに、彼はそのまま身体を前後し始めた。暴力的に熱くてかたいそれが尻の間を往復する。分厚い肉の奥に在る秘孔を先端で嬲り、側面でざらざらと舐めるように通り過ぎた。何度も、何度も、長いストロークで行ったり来たりするのにゼクシオンは叫びたい衝動に駆られる。入れて欲しい。持て余したその熱を、全て身体の奥で受け止めたいのに。
 しばらくのあいだそうして見せつけるように焦らされていたが、やがて彼の本能に従って動きが速くなった。何かの間違いで入ってしまわないだろうか。こんな動きだけでは自分はどこにもいけない。手も使えず、相手の姿も見えず、もどかしく腰を揺り動かすことしかできない。彼の動きが強くなり、耳元の呼気も早まるのを、じれったく聞いていることしかできない。

 短く呻くような声に続いてやがて迸った何かが背中を流るのを感じた。冷えた身体に流れるそれは焼けるように熱く、肌の上の温度差に眩暈がした。一度ゆっくりと彼が動きを止めた。浅く速い息遣いを首の後ろに受けて、ゼクシオンの全身が火照りだす。間にとどまるそれはまだ熱くしっかりと質量を保っている。
 たまらずにゼクシオンは尻を突き上げ相手に押し付ける。入れて欲しい。その熱を、身体の中に入れて欲しい。決して経験は多い方ではない。これまでに知っている相手はひとりだけ。けれど、なぜか確信に近い気持ちで、彼との相性の良さを予感していた。
 身体をずらし、先端を入り口にあてがう。流れ落ちる体液が溝を伝い、二人の間を埋めていく。恥も外聞もかなぐり捨ててでもこの瞬間、ゼクシオンは彼が欲しかった。

 爪先立ってもういちど腰を突き出したのと、彼が中をめがけて体重をかけたのとが同時だった。

「あぁっ……!!」

 彼の張り詰めた熱が躊躇うことなく真っ直ぐに奥へと突き進む。圧倒的な質量に貫かれ、目の奥がはじけるような刺激にゼクシオンは身体をしならせた。なすすべもなく前から白濁が散るが、虚脱感に浸る間もなく彼がいけるところまで行くのを受け入れる他なかった。感じたことのない圧迫感に喉から絞り出すような嗚咽が漏れた。彼は押さえ付けていた手を離すと、両手でゼクシオンの腰を掴んでそのまま自身の腰を打ち付けはじめた。奥を穿たれるたびに聞くに堪えない声が自分の喉から放たれた。まるでけもののようだった。腕は自由になったけれど、激しく揺さぶられる身体を支えるために必死でテーブルにしがみついていなくてはならなかった。古いテーブルはがたがたと音をたて、意識して掴んでおかないとどんどんと奥へずれていってしまいそうだったため、理性を捨てきれなかった。ここがホテルかどこかの部屋のベッドの上だったのならば、何もかも忘れて与えられる快楽に没頭できたことだろう。馬鹿みたいに動く軽い机と、すぐ横の硝子戸に打ち付ける雨の音が、ゼクシオンの意識をわずかに留めていた。

 今誰か来たらまずい。
 ――くるわけがない、こんな雨の中で。
 外から丸見えじゃないか。
 ――誰が足を止めるものか、こんな暗い夜に。

 思考がぐしゃぐしゃに錯綜する。後ろからの熱に集中したかった。もっと激しく突いてほしい。壊れてしまうくらい。乱暴でいい。何も考えられなくしてほしい。

 

 机の上に置かれていたスマートフォンが再び鳴った。画面は見えないけれど、鳴り続けているのを見るに通話だろうか。いつまでも存在を主張し続けるそれが煩わしくて、ゼクシオンは手を伸ばし機器を薙ぎ払った。かたい音をたててスマートフォンが遠くに落ちる音がするのを血走った目で見ていた。誰にも邪魔なんてさせない。彼が腕を回してご褒美のようくれたキスはあまりにも甘美な味がして、もう他の誰のことも頭の中になかった。

 互いの舌を吸い合いながら身体を押し付け合っていると、そう間を置かずして、再び彼がいったようだった。触れる背後の身体が震え、律動が弱まる。違う、嫌だ、止めないで、僕がまだいってない。たまらない気持ちでゼクシオンは下から身体を揺すった。彼の腕が再び自分に巻き付くのに上から手を重ね、首の前に巻かれた腕に歯を立て吸った。何度も。
 こちらの意図が伝わったのか、彼は後ろからさらに体重をかけた。腹這いになるような形で二人はテーブルの上に乗り上げる。小さなテーブルは嫌な音をたてて軋んだけれど、ゼクシオンは支えずとも身体を預けることができるようになった。すかさず手を伸ばして、膝の下にだらしなく残っていた濡れた衣服をすべて取り払って投げ捨てた。靴すらも脱ぎ捨てた。もう自分と彼を隔てるものは何もない。

 机の黴臭さが鼻をついたが、襲い来る背後からの圧迫に今度こそ何も考えられなくなった。湿気た木の板と大柄な彼に挟まれて、彼は何度目かだというのに衰えを感じさせず、むしろよりさらに激しくなった。けもののようだった。ふたりとも。頭の中にそのことしかなかった。場所も、二人の境遇も、これまでもこれからも何も関係なく、世界にそれ以外のことが存在しないかのように、ただ交わるだけのふたりとなる。叩きつけられるような快楽をからだの奥で一方的に受け止めながら、自身もようやくのぼりつめようとするその頂点と、その先にあるものを渇望している。

 室内は依然として暗い。雨に白く煙っている外の方がぼんやりと明るく見えた。硝子戸にたたきつけるように雨の粒が当たっているのが見えるのに、雨の音が聞こえない。電力の途絶え、廃屋のように静まり返ってしまった暗闇の中で蠢いている自分たちだけだ。

 

 彼の手を握りたかった。けれど、彼が手首を押さえつけているので叶わなかった。追い縋ろうと、その名を呼ぶことさえできないのだと気付く。僕らは、互いの名前すら知らない。

 

 どれくらいそうしていたかわからない。自分の中に彼を感じていた時間は、一瞬のようであり、永遠のようでもあった。
 彼の力が弱まっていくのを感じる。押さえ付ける手から力が抜けていくのが分かる。終わってしまう。離れてしまう。そう思うとどうしようもなく気持ちが焦った。
 はじかれるようにゼクシオンは自ら腰を突き上げ身体を揺らした。襲い来る虚脱感を押し退けるよう、必死に身体を使った。消えそうになっているともしびを守るように、なんとか彼を繋ぎ留めたかった。黒い影のようにいびつな一つの塊となって、いつまでもけものでいたい。ふたりで。
 そんなことを思い、言葉にならない声を漏らしながら、ゼクシオンはいつまでも身体を突き上げる。

 

20230731