シチューの晩 - 4/4

~ side Z ~

 財布を取り出し、内側のポケットを探る。そこしまわれた銀色の鍵を手のひらに取る。ふちを指でなぞり、眺めているだけで胸の内が満たされるような気分に浸れる、なんて、女々しいなと自分でも呆れてしまう。それでも今の自分にとってこの鍵は、何物にも代えられない大切な宝物だ。
 そろそろと、オートロックのマンションのエントランスに鍵をさしいれる。軽く捻るように回せば荘厳な自動ドアが開き部外者の自分をも一員として受け入れてくれる。一人でこうやって鍵を開けるのはまだ慣れない。
 いいところに住んでいるなあ、と初めて来たときから思っていた。自分の一人暮らしのアパートとつい比べてしまい、エントランスに広がる柔らかな絨毯や額縁に飾られたモネの風景画に思わずため息が出た。
 ホールを横切りエレベーターに乗り、目当ての階のボタンを押す。ゆっくりと扉が閉まると、壁に寄りかかりふうと息をついた。手に持ったスーパーのビニール袋ががさがさと音を立てる。エレベーターを降り、まっすぐ廊下を進んだ先の扉に手のひらに握ったままの鍵をもう一度差し込んで回せば、そこは恋人の部屋だ。
 部屋に上がり込み、窓を開けて風を通す。冷たい外の風が吹き込んで、広い部屋は一層寒々しい。換気が終わると今度は窓を閉め切り、エアコンのスイッチを入れる。手を洗い、水を汲んだ小鍋を火にかけ、買ってきたものをキッチンに並べる。人参、玉ねぎ、じゃがいも、牛肉、デミグラスソース。時計を確認するが時刻はまだ昼。恋人が仕事を終えて帰宅するまでにはそれなりの時間があるからじっくり仕込むことができそうだ。
 天気予報では夜には気温がぐっと下がり、ところによっては都心でも雪がちらつくとか。一緒に過ごせる夜はあたたかいものを作って迎えたいと思い、買い物を済ませて恋人の部屋へとやってきたわけである。
 まだ時間がたっぷりあるので何かすることはないかと部屋を見渡すものの、物の少ない部屋はいつでもすっきりと片付いていて掃除も行き届いている。結局することもないので、沸かしたお湯でお茶を入れ、温まってきた部屋の中で寛ぎながら鍵を丁寧に磨くことにした。ほとんど趣味と化している作業だ。銀色に輝く鍵を眺めて、これをくれた人を想いを馳せる。

 マールーシャ。
 優雅で優美で、自信に満ち溢れている、年上の恋人。自分の気持ちを知ってか知らずか、男同士であるにもかかわらず真っ直ぐに好意を伝えてくれた。付き合うことになってからはやいものでもう季節が二回変わっていた。
 好きなところを挙げればきりがない。頭のいいところ、本の趣味が合うところ、ちょっと癖のある柔らかい髪、力強くも優しい手──。なによりも、年齢相応の大人びた余裕が好きだった。何度か家に呼ばれて寝泊まりをするうちにこの鍵を渡されたときは、内心飛び上がるくらいうれしかった。なのに自分の反応はというと、動揺を顔に出さないようにするので精いっぱいで素直に喜ぶことすらできなかった。『忙しいのであまり来れないと思いますけど』なんて、目も見ずに言ってしまったっけ。稚拙な自分の態度を思い返すとため息が出た。そんな自分に対しても、怒るでもなく呆れるでもなく、穏やかに笑っていた彼にまた胸が締め付けられるような愛しさを思い出す。そういうことをスマートにやってのける余裕のある振る舞いが彼の魅力だ。
 もう少ししたら、調理を始める前にシャワーを浴びておこうか、と今一度時計を見る。家に泊まるのは久しぶりだった。今夜、彼にこの身を解かれるのだと思うと早くも身体が疼く。早く帰ってこないかなあ、と時計にばかり目が行った。
 外はだんだんと日が暮れて薄暗くなり、冷たいであろう風が時折かたかたと窓を揺らした。
 特別寒い今夜は、温かいシチューで彼を迎えるつもりだ。

 

Fin.

20190211