花宿す貴方へ - 2/5
『貴方が、十一番目?』
下から見上げているのにも関わらず、どこか見下すような視線に強烈に惹きつけられた。頭を下げるでもなく、握手を交わすでもなく、形式上の挨拶だけ述べるとゼクシオンはこちらに興味を示すことなくつかつかと横を通り過ぎて行った。
もしもいまその腕を取ったならば、貴方はどういう表情を見せるのだろうか。血の通っていないかのような青白い肌に直接触れたならば。薄い唇を割ってその奥を暴きたい願望を知ったら、間違いなく軽蔑するだろう。だがそれもいい。私にしか見せない貴方の表情が欲しい。
夢の中でマールーシャは、決して振り返らないその背に手を伸ばす――。
追憶に反応した身体がまた疼きだすのを感じてマールーシャは目を覚ました。忘却の城に朝日は差し込まないが、夜は明けた頃合いだろう。身体に渦巻く倦怠感から始まる一日にため息を漏らす。
症状が悪化すると、最初は夜にだけ訪れていた嘔気がだんだんと昼夜問わず首をもたげるようになっていた。任務を終えて部屋に閉じこもってさえいれば何とかやり過ごしていたが、このところは任務の最中も気分が思わしくない。症状の原因を少しでも考えようものなら、嫌でも彼の姿が脳裏に浮かび上がる。これも幻影使いたる所以か、などと、またも彼に関連付けていることに気付いてうんざりした。
とどまることを知らない吐き気は、夢の断片を糧に胃をぐるぐると唸らせ強く胃液を押し上げる。水場に向かおうと身を起こすが、立ち上がった矢先、いつもよりも大きな異物感にマールーシャは胸を押さえて膝をついた。こみあげる圧迫に耐えられず、その場で身体を絞るようにして床にそれを吐き出す。耳を覆いたくなるような自分の声の合間に、口からはおびただしい量の花がぼたぼたと舞い落ちた。
「かはっ……あ……?」
ぐらぐらと強い眩暈を感じたが、自分が吐き出したものを目の当たりにしたマールーシャは目を見張る。いつもは花弁ばかりをばらばらと降らせていたのが、そこに落ちているのは見事にまとまった赤い薔薇の首だった。そっと拾い上げたそれは、ややひしゃげてはいるものの、たった今花開いたかのようにみずみずしい。絡んだ唾液がまるで朝露のようにも見えて、一見すると皮肉にも美しかった。マールーシャはため息をついて手のひらのそれを握りつぶす。こんなものが大量に気道に溢れかえったらいよいよ生死に関わるだろう。砕けた赤い花弁が純白の床を点々と彩るのを見て、ああこれが本物の血だったら間もなく楽になれるのだろうか、などと柄にもなく弱弱しく考えた。止まらない嘔吐に精神はずいぶんと衰弱している。
部屋の扉が開いたのはちょうどその時だった。洞穴のような暗がりに突如光が差し込み、マールーシャはぎょっとして顔を上げた。誰かが入口に立ちすくんでいる。霞みかけた目が急速に焦点を相手の姿に合わせる。
そこに立っていたのはラクシーヌだった。マールーシャを見下ろすその目は驚愕に見開かれ、大きな瞳は動揺を隠しきれず揺れている。
「ちょっと、なにこれ……」
狼狽えながら花の散らばる床を眺め渡した後、膝をついて花まみれになっているマールーシャを見てラクシーヌは駆け寄ろうとした。その足元には昼夜問わず吐き散らした花弁が広がっている。全身から血の気が引くのを感じたのとほぼ同時、考えるより先にマールーシャは息を吸い込む。
「触るな!!」
先刻までの吐き気などどこかへ吹き飛んだかのように、城中に轟くような声でマールーシャは反射的に叫んでいた。弱弱しく蹲っていた姿からの突然の変貌にラクシーヌもその場に立ち尽くし釘付けになる。
「出ていけ!!」
片手で口元を覆いながら声を荒げると、マールーシャは空いた腕を伸ばした。一瞬のうちに大鎌が握られている。ラクシーヌの目はこれ以上ないくらいに見開かれ、次の瞬間怒りの炎を灯した。
「な、何よ……心配してあげたんじゃない!」
怒りに声を震わせてラクシーヌはその場で踵を返すとそのまま駆け出し、乱暴に扉を閉めて気配を消した。
一人になった部屋でマールーシャは荒い呼吸を繰り返す。焦燥、恐怖、安堵、いろいろな感情が浮き上がっては霧散していく。心の無い胸中に感情は滞留できない。手の力が抜けると大鎌はがらんと大きな音を響かせて床に落ち、そのまま紅の花弁を舞わせて消えてなくなった。
幸いにもラクシーヌは花弁には触れていなかった。触れさせるわけにはいかない。この病気は触れた者に伝染しうるから。
ラクシーヌが来たことで意識が逸れたおかげか吐き気は引いていた。壁にもたれてマールーシャは深いため息をつきながら無残に花の散る床をただぼんやりと見つめる。