花宿す貴方へ - 4/5

 固形物が喉を逆流する感覚のなんとおぞましいことか。
 薄い花弁はそこかしこに張り付きながら喉に充満して一層不快感を煽った。身体を絞るようにして、ばたばたと口から花冠かかんをこぼしながらマールーシャはベッドの上で息を荒げていた。花は潜在意識によって次々と生み出され、吐いたところで身体は楽にならない。布団は床に落ち、シーツは力任せに握っていたせいで滅茶苦茶に乱れている。吐き散らした花がそこかしこに広がる凄惨な有様のベッドを、さらなる吐き気を堪えながらマールーシャは茫然と眺めていた。

 ゼクシオンの視線が、言葉が、脳裏に蘇る。確実にこちらの異変に気付いている。聡い彼のことだ、花吐き病にたどり着いてしまうのは時間の問題だろう。舌先に残る花弁をぷっと吐き出してマールーシャは口角から垂れる唾液を拭った。頭の中で違う自分の声がする。
 何を恐れることがあるのか? 彼は私に興味などない。花属性である自分が新しい花の匂いを纏っていたからといって、それが花吐き病に直結するとは考えられない。それに、知られたところで何の問題が? いくら彼が賢くても、まさか彼自身がその相手だと思うはずは、万に一つも有り得ないだろうに!

「う、ぐ……っん、」

 そう、有り得ない。わかっているはずだ。この稚拙で利己的な独占欲が、いかに馬鹿げたものであるか。マールーシャは自分に言い聞かせるように反芻する。わかっている、はずなのに、止められない。
 とめどなく押し寄せる胃液が喉を焼く。むせかえったマールーシャが口を覆った手に感じた違和感に目をやると、花弁とは違う、赤黒い液体が手のひらにたまっていた。指の間を流れるそれは、花の姿をとどめていない。いや、これは、血――?

 突如、ノックの音が部屋に響きわたる。びくりと反応し、マールーシャは無言のまま目をドアに向けた。聞き間違いであってほしい。そんな願いも空しく、再びノックの音が硬く扉を打つ。

「マールーシャ、いますか」

 一番聞きたくて、聞きたくなかった声が名前を呼んだ。胃が激しくうねりだす。身体を落ち着かせようと浅い呼吸を何度も繰り返し、ようやく声を絞り出す。

「……生憎、手が離せない」
「花が止まりませんか」

 核心を突く一言にマールーシャは一瞬吐き気を忘れた。

「花吐き病なんでしょう」

 何故、と喉元まで出かけたが、マールーシャはそれを飲み込むと首を振った。まさに、こうなることはわかっていたのだ。

「わかっているなら話が早い」

 身体を引きずるようにしてドアの前まで移動すると、ぜいぜいと荒い呼吸の合間に突き放す言葉を選ぶ。

「関わるな」

 なんとかそれだけ言うとドアに背を預けてずるずると崩れるように座り込む。この一枚の扉を挟んだ先に彼がいるのかと思うと、愛しくて、憎たらしくて、吐き気がした。もはや彼に対して何の感情を持っているのか自分でもわからない。体内でとめどなく芽吹く花は、マールーシャの思考をどんどん歪めていった。彼が、ゼクシオンが、欲しくてたまらない。それは愛しいなんて言葉で表現できるものではとてもなくて。どうにかしてしまいたい、この手で。そんな、名前のない横暴な感情。

 扉のこちら側に気配を感じたのか、向こうの気配もまた様子を伺うように静まっていた。
 これ以上彼と話すことはなかった。気持ちを伝える気など毛頭ない。止まらない吐血に意識が霞む中、マールーシャはよろよろと立ち上がると部屋の奥に向かった。死ぬのならせめて、柔らかいベッドに身体を横たえたかった。死ぬ? 死ぬのか、私は?

 不意に感じ取った他者の気配に顔を上げたマールーシャは、眼前の光景を見て再び吐き気を忘れるほどの衝撃を受けた。

 そこに、ゼクシオンがいた。
 花の散らばる鮮やかなベッドの上に腰掛けて、少し猫背気味に俯いている。
 信じられない。さっきまで扉を挟んで話をしていたし、扉には錠を下ろしていたはずだ。闇の回廊を使ったのか?
 あたりに散らばる花が今にも触れてしまいそうで思わず声を上げようとしたが、ゼクシオンがまっすぐ見ているものに気付くと今度は頭が真っ白になる。彼が慈しむように見つめているのは、己の手のひらの上にある濡れた薔薇の首だった。

「なるほど、これが消えない花ですか」

 両手で包み込んだそれをまじまじと見つめながらゼクシオンは呟いた。

「とても体内で生み出されたとは思えないですね。花の力を司る貴方だからこそ、なのでしょうか」
「なぜ、」

 やっとのことでマールーシャは絞り出すように声を出した。

「何故、平然としている……」

 触れた者は感染するはずだ。だから、ラクシーヌのことすら拒絶した。涼しい顔をして花を手の上に遊ばせるゼクシオンに、嘔気を耐えている様子は微塵ほどもない。

「何故って貴方、わかりきったことを」

 そういってベッドから立ち上がると、いつもの淡々とした口調でゼクシオンは続けた。

「心が無いから。恋なんて知るはずもありません」

 さも当然とばかりに言い切るゼクシオンをマールーシャはぼんやりと見つめた。冷徹非情なノーバディが、冷え切った目で自分を見つめ返していた。

「しかし、貴方は花を吐くのですね。心が無いはずなのに、そうまでして命を燃やして、一体誰を想っているのです」
「お前には関係ない!!」

 力限りの怒号を浴びせると、マールーシャは胸ぐらを掴もうと腕を突き出した。が、伸ばした腕はそのまま空を切る。指先に触れる間際、ゼクシオンだったものは跡形もなく霧散した。手に包まれていた薔薇の首がぽとりと床に落ちる。

「幻影……?」

 放心し、気が抜けたようにその場に座り込んだ。尚も胸に沸きあがる終わらない悪夢のような感覚に、マールーシャは意識も何もかも投げ出したい気持ちで頭を抱え目を閉じる。
 ゼクシオン、お前が欲しくてたまらない。この身をこれほど患うまでに。

 目頭が熱くなった気がしたが、虚無を映す瞳からは何も零れなかった。