花芽吹く君へ - 3/6
まず、睡眠時間がどんどん長くなっていった。朝は起きれなくなり、夜を迎える前に疲労困憊で気絶するように寝入ってしまうようになる。起きていられる時間は日に日に短くなり、起きている間も疲れやすく、誰かとしゃべるのも億劫で、精力的に調べものをする気になど到底なれなかった。
さらに、起きていられる貴重な時間はほとんど身体の渇きに悩まされた。常時、水が欲しくてたまらなかった。水を欲する頻度も徐々に上がってきている。幸い水は部屋で水道から汲むことができたが、押し寄せる睡魔と戦っているときは水を汲む労力すら苦だった。いつのまにか、食事をとらなくても水だけで身体が満足していることに気付く。食事をとらないので、部屋から出なくなっていった。ほかの機関員たちと顔を合わせなくなって久しい。
そして、右目から這い出してきた植物の芽。信じられないことに、元気よく成長していた。身体が水を求めて止まないのはこれが原因だろう。水分を得て謎の植物は見る間にその芽を伸ばし、前髪で隠れているのをいいことに顔の右半分をその蔦のような茎で覆い始めた。はじめは目尻にひょっこりと顔をのぞかせている可愛らしい芽だったのが、太くて赤黒い、とげとげとした茎を顔中に蔓延らせているさまは不気味というほかない。
当然、任務どころではない。まだ症状が軽いうちは何度か機関員が部屋を訪れるのを応対もしたが、寝ている時間があまりにも長いせいで誰とも会わなくなっていった。レクセウスが水を飲ませてくれた日があったかもしれない。ヴィクセンが怒鳴りながら肩を揺さぶった日があったかもしれない。デミックスが心配そうに名前を呼んだ日があったかもしれない。なかったかもしれない。いつのことだか、本当にあったことだか、記憶が混濁して何もかも曖昧だった。
*
いつものように喉の渇きで目を覚ます。すっかり干からびてしまったんじゃないかと重たい手を目の前に掲げてみるが、想像とは相反してまだ水分を十分に保った若い腕のままだった。ほっとしてぽてりと腕をベッドに落とす。
どのくらい寝ていたのか見当もつかない。今が昼なのか夜なのかもわからない。カーテンを閉め切った部屋はどんよりと暗く、空気が濁っているようだ。新鮮な空気が吸いたい。日光を浴びたい。でも何よりも水が飲みたい。身体が重たくて動きたくなかった。
首をもたげて辺りを見渡すと、サイドテーブルに水を満たしたピッチャーが置いてあるのが目に入る。誰かが用意してくれたのだろう。しかしそんなことは気にもとめず、すがる思いで手を伸ばすが、あと少し、というところで手は空しく空を切った。渋々と身体を起こすと、サイドテーブルを引き寄せようとベッドから身を乗り出す。テーブルのふちを掴むと、やみくもに引っ張った。
「あっ」
力の加減もせず無暗に引っ張られたサイドテーブルは簡単にバランスを崩して大きく傾いた。ゼクシオンが声を出したのとピッチャーがテーブルから浮き上がったのはほぼ同時だった。次の瞬間、静寂を破るようにガラスの割れる音が響き、ピッチャーは固い床に叩きつけられて粉々に砕け散った。水がじわあと床に広がる。
「み、水……」
もはや眼前の水しか見えないゼクシオンは、自分がサイドテーブルもろともバランスを崩していることに気付いていない。遅れて、鈍い音を立ててゼクシオンはベッドから転げ落ちた。呻くようにして顔を上げる。身体が痛い、でも、そんなことよりも、水が欲しい。
ピッチャーから解き放たれた水はじわじわと眼前の床まで延び広がっている。床に這いつくばったままゼクシオンはなんとか水のほうへ進む。水溜まりが顔を、髪の毛を、目から芽吹いた蔦を濡らす。は、は、と浅く呼吸をしながらゼクシオンは舌を伸ばす。無様にも床に広がる水を舐め啜ると、身体の渇きは幾分か和らいだ。
自分はいったい何をやっているんだろう、とゼクシオンは濁った眼で茫然と、床に頬をつけたまま周りに飛び散ったガラスの破片を眺めていた。起き上がる気力もなかった。顔に当たる水が気持ちいい。このまま水に根を張りたい、と目を閉じた。
足音がこちらに向かってくる。幻聴だろうか。ぼんやりとした頭でただ音を拾っていると、程なくして部屋のドアが開け放たれた。外からの光を顔に受けて薄目を開けると、誰かが入口に立ってこちらを見ていた。
「……そうだな、ガラスは危険だ」
暫し考え込んだ後そう言うと黒い人影はコツコツと歩み寄り、かがみこんでゼクシオンの頬にそっと触れた。革の手袋からは体温を感じない。抵抗もせずぐったりとしているゼクシオンにその人物は丁寧に腕を回すと、簡単に抱え上げてベッドの上へと連れ戻した。濡れた髪の毛が顔に張り付いて気持ちが悪かったが、再び柔らかなベッドの上に横たわると気分はずいぶんとましになった。顔を傾けて、助けてくれた人物を見つめる。
「マールーシャ……」
かすれた声しか出なかったが、マールーシャは穏やかに微笑んだ。ゼクシオンの顔に張り付いた髪の毛を払うと、シンクに向かう。蛇口をひねり、水がシンクに当たって跳ねる音を聞くだけで、ゼクシオンはまた身体の渇きを感じる。中毒症状のように手が震えはじめ、シンクに向かうマールーシャの背にその手を伸ばした。
「水、水を、ください……お願いします……」
「心配しなくても、今持っていく」
コップに水を汲んでマールーシャは戻ってくる。ベッドに腰かけ、目を血走らせたゼクシオンを片腕で抱き起した。
「慌てるな……そう、ゆっくり口に含んで」
がっつこうとするゼクシオンを制しながら少しずつコップを傾けて水を与える。飲み切るともっととねだるゼクシオンをなだめ、マールーシャは時間をかけて水を汲んではゼクシオンに与えた。
何度にも及ぶ往復の後、ようやく満足したゼクシオンは力を抜いて枕の上に頭を落とした。深く呼吸をし、冷静になった頭をマールーシャに向ける。
「ありがとうございます」
「容易いことだ」
「どうして、貴方がここに」
そう言ってからゼクシオンははっとして部屋を見渡した。薄暗くよく見えないが、ようやくはっきりしてきた意識の中で、今更ながらにここが自分の部屋でないことに気付く。
「左様、ここは私の部屋だ」
落ち着き払った声でマールーシャは答えた。
「私が連れてきた。もはや一人では自由に動けまい」
ゼクシオンは無言のまま視線を漂わせた。倒れたサイドテーブル、割れ散らばったガラスの破片、水浸しの床がそのままになっている。
「……すみません、貴方の部屋を、汚してしまって」
「気にするな。安易に置いた私が悪いのだから」
怪我をしなくてよかった、とマールーシャはゼクシオンの顔を覗き込んだ。落ち着いているマールーシャを見ていると、頭の中に数々の疑問が沸き立つ。
「これのことをご存知ですか」
ゆっくりと手で前髪を払う。剥き出しになった顔には、悍ましくも目から這い出したままの蔓が伸びている。ところどころから葉を出し、顔色の悪いゼクシオンとは対照的に生き生きとその葉を広げていた。マールーシャは黙って見つめている。
「お目にかかるのは初めてだ」
ゼクシオンはため息をついて目を閉じた。触れても構わないだろうか、との問いに力なく頷く。マールーシャは身を乗り出して青々とした葉に触れた。触られているのは植物なのに、撫で上げられるような感覚がまるで直接地肌に触れられているように感じられる。ん、と短く唸るようにしてゼクシオンは身動ぎをして目を開けた。眼前にマールーシャの顔があった。
この男をこんな間近で見たことがあっただろうか?逞しく力強い佇まいはまるで男性的なのに、近くで見る彼は長い睫毛やきめ細かい肌が繊細な印象を与えた。瞳の明るい青は強い眼差しで真っ直ぐに右目の植物を見つめている。僅かに開いた薄い唇の間からは鋭い犬歯がちらりとのぞいていた。
「これが恐ろしいか」
マールーシャの問いにゼクシオンは力なく首を振った。瞼が急に重くなる。
「そんな感情はとうの昔に捨てました」
投げやりに返事をすると、ゼクシオンはまた抗えない眠りの中へと沈んでいった。
静かに寝入る様子を見届けると、マールーシャは手袋をはずして素手でゼクシオンの頬を撫で、肌を伝う蔦に指を絡めて目を細める。
「噂に聞いたことはあったが、こんなところで出会えるとはな」
寝入ったばかりのゼクシオンに声は届かない。それでもマールーシャは続けた。
「これは、この世で最も美しい病だ」
うっとりとそう呟く声は誰にも聞き咎められることなく、静かな部屋に吸い込まれていった。