花芽吹く君へ - 5/6


 パチ、パチンと耳元で音がする。耳障りな音にゼクシオンは眉をしかめて身動みじろぎをした。顔の右半分が重たくて、頭がぐらりと右に傾く。

「もうすぐの辛抱だから」

 そう言いながらマールーシャは、ゼクシオンの顔を支えて真上を向かせた。耳まで延びる太くて赤黒い茎を指に絡め、生い茂る葉を根元から剪定鋏で切り落とす。静かな部屋に鋏の音がまたパチンと響いた。ゼクシオンは顔に蔓延る植物が剪定されていくのを、言われた通り大人しく上を向いたまま待っていた。

「さあ、綺麗になった」

 余計な葉と伸びすぎた茎をすべて刈り揃えると、マールーシャは枕元に散らばった葉を払って優しく言う。ゼクシオンはゆっくりと手を掲げて自分の顔に触れた。顔の半分を広く覆っていた蔦はほとんど刈り取られて今では随分すっきりとしている。久しぶりに空気に触れた頬を撫でてから、そろそろと右目のあったところに手を伸ばす。大きくふくらんだ蕾に手が触れた。

 マールーシャの部屋に運ばれてから何日たったのか、とうにわからなくなっていた。寝て起きては水をねだるだけのゼクシオンを、何を思ってかマールーシャは甲斐甲斐しく面倒を見てくれていた。やはり花が相手だからだろうか。自分が花として接せられていることにすらゼクシオンは無感情だった。もう以前のように昔の感情を呼び起こして表現できるほどの気力などない。寝て、起きて、水を飲む、それだけ。とうに自分が自分でなくなっていることに気付いていたものの、それをどうにかする気力はもうゼクシオンにはなかった。
 ゆっくりと目を開けてからふと彼を呼ぼうと口を開けるが、息が喉を通るばかりで声にならない。

「どうした、水か」
「マールーシャ、何処にいるんです」

 絞り出すようなか細い声でゼクシオンは呼びかける。首を動かして、辺りに視線を漂わせる。

「私はここにいる」
「……見えない」

 蕾を付けてから、右目の後退は著しかった。徐々に視界が狭まり、色の判別ができなくなり、蕾が立派に育つ頃には視力を失っていた。それにとどまらず、今や左目の視力さえもが危うい。虚空を見つめながらゼクシオンは探るように手を伸ばした。

「ここにいる」

 マールーシャは繰り返すと、震える手を取って握った。冷えた指先をそろそろと絡めて存在を確認すると、ゼクシオンは長く息を吐いて力を抜いた。

「みずを」

 尚も水を求めるゼクシオンに、マールーシャはいつものようにコップを手に取った。が、いつもとは違い今日は自ら口を付け口内に冷たい水を含むと、起き上がることもままならない身体に覆い被さるようにして口付ける。いつもと違う生暖かい水の感触にゼクシオンは僅かに反応を見せたが、甘んじてそれを受け入れた。冷たい無機質な水ではなく、体温をわずかに纏ったその生ぬるさを身体で感じると、随分と久しぶりに自分が植物ではなく人であることを思い出させてくれたようだった。
 マールーシャの気配が離れると目を開けてじっと見つめた。青い隻眼は久しぶりに視力を取り戻しマールーシャの姿を捉えた。

「なんですか、いまの」
「愛されたかったのだろう。花になる前でも早くはあるまい」

 囁くようなマールーシャの言葉にゼクシオンは目を見張る。脳裏にいつか見た夢が浮かんだ。

「ノーバディのくせに」

 ゼクシオンの声は震えていた。

「他人を愛せるわけがない」
「しかし貴方はノーバディでありながら愛されることを望んだ」
「……人の夢まで入り込んで、貴方、本当に悪趣味ですね」

 ゼクシオンは悪態をつきながら、夢の中の光景を思い出していた。銀色に光る如雨露と、自分を見下ろす鮮やかな青い目。

「元気が出たようで何よりだ」

 マールーシャは澄まして言うと、握る手に力を込めた。あたたかい。その手の温もりを感じると、再び瞼が重くなった。ああ、落ちていく。

「眠ったらいい。視界が悪くても、私が此処にいるとわかるだろう」
「まだ、花になってないですって」

 そう言いながらも、胸中はどこかほっとしていた。
 名もなき花の呪いに囚われ一人寂しく朽ちていくものだと思っていた。誰かがそばにいてくれることを、本当は望んでいたのかもしれない。
 まどろんでいく意識の中で、指先に僅かに濡れた温かい感触。いつの間にか手袋は取り外されていたようだ。

 このまま眠りに落ちていったら、また夢で逢えるだろうか。意識があるうちに聞いておけばよかったな、とゼクシオンはほんの少し後悔した。
 次に起きたら、正直に伝えてみよう。花としてでなく、僕のそばにいてくれますか、と。そばにいてほしい、と伝えたら彼はどんな反応を見せるのだろう。まだこの目が視力を保つうちに、その反応が見たい。
 ゼクシオンは穏やかな気持ちで意識を闇に溶かした。