夏盛り、暁を待つ - 2/3
「あ……そういえば」
帰りの電車に揺られながらはっとしてゼクシオンは顔を上げた。夕刻、帰宅ラッシュにはまだ早かったが電車にはまばらに人が乗っていて、二人は車両の入り口近くに並んで立っていた。
「うち、いまエアコン壊れてるんです」
「は?」
ご機嫌だったマールーシャが見る間に真顔になる。
「だから、ちょっと長居は厳しいかも……なんて」
「え? 壊れてるって……エアコンなしでこの猛暑を?」
ちょっと面倒な展開になってきた気配を察知してゼクシオンは虫の居所が悪い。この後待っているのは説教に間違いないが、焼け石に水の弁明をした。日中は家を出て大学にいることがほとんどだし、夜は窓を開けていれば風が通ること。
もちろんそんな御託でマールーシャが納得してくれるはずはなかった。尋問が続く。
「修理は」
「今業者が夏季休業で……来週には」
「来週……」
マールーシャは頭を抱える。ゼクシオンも少し申し訳なさそうに俯いた。
「すみません、今日うちに来るとは思わなかったから」
「そこじゃないだろ……一人暮らしで、熱中症にでもなったらどうするんだ」
「大丈夫ですよ、扇風機ならありますし」
「そんな話をしているんじゃない」
最寄り駅に着いて電車を降りても悶着は続く。
マールーシャは泊まるつもりでいたようだったが、協議の結果、鉢を置いてから荷物を持ってマールーシャの家に向かうことになった。修理の目途がつくまでの間うちにいればいい、と思いついたマールーシャは自分の提案を気に入ったようで、一転して少し楽しそうだった。ゼクシオンが恐縮して反対しても、もうどこ吹く風だ。
開錠してドアを開けると西日の入る自室は熱がこもっていて、マールーシャの眉間の皺は再び濃くなった。すぐ支度しますから、と言いながら、手を洗ってゼクシオンは冷蔵庫から麦茶を取り出した。グラスに氷を入れて注ぎ、不満げなマールーシャに差し出す。
「もっと自分を大事にしてくれ」
「大丈夫ですよ、こう見えてタフですから」
そうは言っても納得してくれる様子はない。彼は意外と心配性だ。それとも過保護というのだろうか。
キッチンの小窓を開けてからベランダの窓を開けると風が抜けて格段に涼しくなった。ほらね、とマールーシャを見るがまだ煮え切らない様子だ。説得するのは諦めて、そそくさと鞄に着替えなどを詰める。心配をかけまいと黙っていたことが裏目に出てしまったようで、ゼクシオンは少し反省をした。
簡単な支度が済んで見ると、マールーシャが窓辺で鉢植えを取り出しているところだった。
「あ、これ、水やりどうしましょう」
「今日は日が落ちたら一回水をやればいいだろう。今後は一日二回、土が乾いたら、だな」
「わかりました」
しゃがみこんで隣に座ると、マールーシャと目線が近くなった。西日を受けた横顔をさりげなく盗み見た。彼の植物を扱うときの真剣な目が、好きだ。妬けてしまうほど純粋に愛を込めて見つめているのがわかる。長い睫毛の影から目が離せなかった。
「あの、今日はありがとうございました」
素直に感謝の気持ちを述べた。連れて行ってくれて、立派な朝顔までもらってしまって。彼といるとどんどん自分の中に知らない世界が広がる。
マールーシャが振り向いた。いつもよりも近いところからの眼差しを、挑むような気持で真っすぐ見つめ返した。
「朝顔、たまに見に来てください」
目を見たままそういうと、マールーシャが少し目を見開いた。
「枯らしたら嫌なので」
付け加えるように言うのを聞いて、くす、とマールーシャが笑った。
「頻繁に来ないといけないな」
腕が伸びてきた。頬に触れる手のひらが熱い。惹かれて触れた唇も、同じ熱を持っていた。
身を乗り出して受け入れる。自分から口を開けて、相手の唇を舌先でなぞった。ほんの少ししょっぱくて、いつもよりも濃く相手の匂いがして、発散される生を感じてぐっときてしまう。
啄むようなキスが深さを増してくると、そのまま床に倒された。ひやり、と一瞬床の冷たさが肌に気持ち良かったが、すぐに体温が勝ってその感覚は消えていった。フローリングが背骨にあたって痛い。数歩先にベッドがあるのに、もうこれ以上動けなかった。何を焦っているんだ?わからないまま、相手にすべてを委ねる。
シャツの裾から侵入してきた熱い手のひらが、同じくらい熱くなった自分の肌の上を滑る。しっとりと合わさると、触れたところから一つになっていくような、あるいは火がついて焼けていくかのような、優しくも力強い触れ方。暑さのせいだけじゃない。内側から滾る熱に、全身がじっとりと汗ばんだ。ほとんど破られるかのように脱がされたシャツで首の汗を拭って放る。そうして一つずつ身につけていた物を外していっても、身体に巡る熱は冷めやらない。
マールーシャの身体にも汗の玉が浮いているのが見えた。冷房、修理しないと。なぜ今そんなことを思うのかわからなかったが、ここ数日の中で一番強くそれを感じた。身を任せているとすぐに息が上がり、堪えていても口の端から吐息に乗って短く声が漏れた。
窓は開けたままだしここは壁も薄い。夢中になってはいけない、と思いながら、ゼクシオンはもう夢中だった。とても手に負えない。触れる熱に、身体も、思考も、焼かれていく。
マールーシャの意識が少し逸れたのが分かる。目で何かを探していた。鞄だろうか。手の届かない位置にあるのを見付けて、胸中で葛藤している様子が手に取るようにわかる。意識をひき戻すようにシャツを掴んで引いた。見下ろす視線が孕む焦燥すら愛しい。ゼクシオンは首を振った。いい、いらない、そんなもの。
いつもならこのことについてこだわりがちなマールーシャも、ゼクシオンの許容を得ると今日は素直に従った。何物にも阻まれずに直に熱が差し込まれると、暑さに構わず身体が震えた。
今日は二人ともどこかおかしい。すぐに欲情して、ベッドに上がる余裕すらなくて、こんなの全部、暑さのせいに違いない。
上でマールーシャが動くたびにぱたぱたと汗の雫がゼクシオンの胸に落ちる。お互いに汗が止まらなくて、じっとりと肌を合わせ、どこに触れてもぬめるような肌合い。こんなに不快な愉悦は初めてで、それにもまた興奮した。
からん、と少し離れたテーブルの上で、グラスの中の氷が音を立てた。軽い音が聞こえて、不意に思い出す。そういえば、風鈴を買ったんだった。
遠い地で耳にした軽やかな鈴の音が耳の奥でりんと鳴った気がしたが、すぐに熱に浮かされて何もかも曖昧になった。