夢見鳥の鼓動 - 2/3

「歪んでいますね」

 ぽつりとゼクシオンが呟くのに、マールーシャは答えなかった。
 日を改めて部屋に呼ばれたゼクシオンは、勧められるままベッドに腰かけてマールーシャがサイドテーブルに必要な道具を並べていくのを大人しく眺めていた。どこで調達してきたのか知れないがそれなりにその筋のものを仕入れてきているようで、初めて見る道具にゼクシオンは純粋に興味をそそられる。

「これだけ?」

 支度が済んだようでこちらに向き直ったマールーシャにゼクシオンは問いかけた。人の肌に生涯消えない跡を残すための手段としては、この上なくシンプルな用意だった。細長い筆のような棒が二本と、黒い液体の入った受け皿。液体は墨だろう。何の気なしに筆の一本を手に取りよく見ると、毛束かと思われた先端は細かい針で構成されていることに気付く。その針が貫く先を思うと、胸中にさざ波が立つようなざわめきが起きた。

「私はプロではないからな」

 マールーシャはそう言いながらゼクシオンの手から針の筆を取った。

「小さくしか彫らないから、これで何とかなると思う」
「大した自信ですよ」

 そう言いながらゼクシオンは溜息を吐いて、マールーシャに言われた言葉を思い出していた。

 

『消えない跡を残したい』

 あの日、マールーシャはそう言った。
 妙な提案には意表を突かれたが、ゼクシオンは特に迷うこともなく了承した。マールーシャが何かをねだるのは珍しくて、自分に対してそういった欲求をぶつけられることに悪い気はしなかった。それに、傷が一つ増えたところで誰に何を言われるわけでもない。所詮、この身体もまがいものなのだ。

「で? どこに何を彫るんです?」

 いよいよ気になる質問を投げかけると、そうだな、と言って口元に手をやるマールーシャは少し楽しげに見えた。品定めするように、ベッドに腰掛けたゼクシオンをじっと眺め渡す。

「小さくていいんだ。人目に付かないところに、何か一つ残したい」
「意外と謙虚なんですね」

 もっと、見えないところ一帯を覆いつくすかのような強欲な注文が入るかと思っていたので少し拍子抜けした。

「人目に晒すつもりはない。目にするのは私だけで十分」

 静かに告げられた、控えめなのに独占欲とも取れるその言葉はゼクシオンの中の何かをくすぐった。顔に手を当てながらじっとこちらを眺めるマールーシャが何を提案するのか、胸の鼓動を静かに感じながら待った。
 やがてマールーシャは口を開く。

「脱いでくれ」
「え? もう?」
「触れて考えたい」

 真っすぐに見つめながら言うマールーシャの声は真剣だ。ふうん、と言いながら、ゼクシオンは素直に従った。立ち上がって金具を外し、重たい革のコートを脱ぎ去る。そのままブーツを、靴下を、シャツを脱いで、上半身の裸体をマールーシャの前に晒した。

「下もだ」

 透き通るような素肌を前にマールーシャは不満げに顎で下半身の方をしゃくった。尚も言われるがままベルトに手をかけながら、ゼクシオンは嫌な予感がして少し陰鬱な気持ちになる。人目に付かないところ、という言葉が脳裏をよぎった。さすがに性器に刺青を施すなどと言われるのはごめんだ。しかし、どうだろうか、この男なら言いかねない。
 のろのろとズボンを脱いで下着だけになると、幸いにもマールーシャはそこで満足してくれたようで、そのままベッドに上がるよう促された。

 仰向けに寝そべるゼクシオンを見下ろすと、革の手袋を纏った黒い指先はまずゼクシオンの腹に触れた。撫でるように下腹部に指を這わせると、次は脇腹へと滑らせる。真剣な様子でマールーシャの指が身体のあちこちに触れるのを、緊張した面持ちでゼクシオンは目で追いかける。

「身体の内側は、痛いらしいですよ」

 いよいよマールーシャが脚を割った先に手を伸ばしてきたのでゼクシオンは静かに言った。その言葉に反応を示したマールーシャは、一瞬動きを止めてからふむと思案の声を漏らす。

「こことか?」

 一層脚を広げさせ、内腿に触れてマールーシャは言う。下着の縁から足の付け根に向かって指が這い、柔らかな肉の上で黒が食い込んだ。いつの間にか胸が高鳴るように鼓動は早まり、息を詰めてゼクシオンは無言のままマールーシャを見つめた。
 マールーシャは少し考える素振りを見せたあと、手を離して身を引いた。満足そうにゼクシオンを見下ろしている。

「気に入った。そこにしよう」
「……僕の話聞いてました?」
「ちょうどいいだろう。それに、他の者には目に付かないほうがいい」

 何がちょうどいいんだか、と睨むゼクシオンに構わずマールーシャは微笑んで見せた。

「始めようか」

 マールーシャはすぐにそう言って道具に手を伸ばした。背中に枕をあてがい、半身は起こしたまま脚を開いて、作業しやすいようにとゼクシオンは言われるがまま姿勢を変える。マールーシャはベッドの横に椅子を置いて腰かけると、ゼクシオンの脚の間にその身を窮屈そうにねじ込んだ。自分よりも低いところに彼がいるのは、なんだか見慣れない光景だった。指で下着の縁を捲り上げて、腿の内側、普通にしていたら人目に付かないであろうその場所にあたりをとっている。

「何を彫るのかまだ聞いてませんけど」
「出来上がってのお楽しみだ」

 もうマールーシャはすっかり始める気でいる様子だったため、ゼクシオンは諦めて枕に沈み込んだ。彼の芸術センスが並み以上であることを祈るほかない。
 自分の肌にそれを施されると聞いてから、もちろんゼクシオンはその手段についてあらかた調べていた。針の先端に墨を付けて、それを刺し入れることで皮膚のなかに色を付けるのだ。手順としては、まず全体の輪郭を彫った後、針を変えて範囲内を彩っていくという二段階になる。筆のような針が二本あるのはそれぞれの用途のためだろう。墨の用意が一皿しかないことから、マールーシャはどうやら黒一色で仕上げるつもりらしかった。もちろん肌に墨を入れたら最後、簡単には除去できないことはわかっている。

 施術にあたりマールーシャは手袋を外していた。長くしなやかな指が筆のような針を取り上げ、付けペンにインクを吸わせるようにその先端で墨を掬う。戸惑いのない所作に見入るが、針の先端が自分に向けられると反射的に身体が強張った。

「深呼吸だ」

 張り詰めた様子のゼクシオンを見てマールーシャは諭すように言う。怖いわけではない。そんな感情などとうの昔に忘れた。ゼクシオンはゆっくりと鼻から、細く長く息を吐く。マールーシャは一切の躊躇いを見せず、静かに、滑らせるように針を腿の上に刺した。ツプ、と先端が皮膚を貫く。

「ぅ」

 思わず声が漏れた。我慢できないほどの痛みではなかったが、そのまま容赦なく一突き二突きと針を動かされ緊張で呼吸が止まりかける。

「息を止めるな」

 落ち着いた声で、でも鋭くマールーシャは言う。震えを抑えて、ゼクシオンはさらに深く息を吐いた。痛みがひどくない様子を確認すると、マールーシャの手の動きは少しずつ速度を増した。
 努めて呼吸に集中しながら、ゼクシオンは針が自分の白く柔い肌を絶え間なく突き回すのを緊張して見つめた。動作としては文字通り針を抜き差しするのだが、刺すというよりは刃を立てて線を引かれているような痛みに思えた。ピリピリと皮膚を少しずつ裂かれていくような痛みが続き、ゼクシオンは顔をそむけた。時折痛みが強くなると小さく声を上げて身体を縮め、その度にマールーシャはまたゆっくりと呼吸を促した。

 すって、はいて、とあやすようなマールーシャの声を聞いていると、不意に初めて身体を交えた時のことが脳裏に浮かんだ。あの時も、こうしてマールーシャに呼吸を導かれていた。体内を圧迫する異物感に身を捩り、浅くなる呼吸を必死で整える傍ら、見上げるとマールーシャは見たこともない獰猛な目をしてゼクシオンを見下ろしていた。美しい彼が獣へと変貌してくさまに、例えようもなく興奮したのを覚えている。
 今身体を貫いているのはその時の質量と比べたら比べ物にならないくらい小さくて細いのに、その存在感は皮膚を破る強い痛みを伴って主張した。針の抜き差しにどこかあの行為を重ねてしまううちに、ゼクシオンの身体の中の熱がふつふつと滾り始めていく。

 マールーシャが身体を離して針を置いた。終わったのだろうか、と思うのもつかの間、すかさずもう一本の針を手に取るのが見えた。作業は第二段階に進むようだ。
 そろそろと身を起こして脚の間を覗き込もうとしたが、その動きに気付いたマールーシャは手で肩を押さえ付けそれを制した。むっとして睨みつけようと見上げれば、目が合ったとたん片目を瞑ってみせたりするのだから、本当にこの男には呆れる。
 マールーシャの手の中にある二本目のこの針はゼクシオンが最初に手に取った方で、まさに筆の如く細い針を束にしたブラシのような形状になっている。

「あっ」

 ぐいと脚を抱え込まれ、ゼクシオンは引きずられるように体勢を崩した。ベッドに乗り上げたマールーシャが上から覗き込みながら深く脚を抱え固定する。もうすでに何度も針を突き刺されたそこは悲鳴を上げるかのように熱を発していたが、それでもマールーシャは構わずに新しい針で、やはり躊躇いなく作業を続行した。
 今度は針の範囲が広いこともあり、痛みは輪をかけて増した。情け容赦なく皮膚の下に潜っては消えない色を残していく。徐々に耐え難くなる痛みが募りゼクシオンは次第に声を漏らし始めた。脂汗が額に滲む。

「ま、マールーシャ、待って……痛っ、いたい……」
「ああ、そうだな」

 ゼクシオンが呻こうが身を捩ろうが、悲痛な声はマールーシャには届いていない様子だった。もう呼吸を導いてもくれなかった。脚が固定されて動かせないのをいいことに、滴る墨を拭いながらマールーシャはこんこんと彫り続ける。拷問のようにも思える仕打ちにゼクシオンはシーツを握り、枕を掻き抱いて耐え続ける他なかった。
 不意に視線を感じて顔を上げると、マールーシャがこちらをじっと見つめていた。あの時と同じ目をしていることにすぐに気付く。滴るような、欲に濡れた目。

「ちょっと、手元に、ん、集中してくださいよ……!」

 突き上げられながらゼクシオンが声を荒げるも、そうだな、と呟くマールーシャはゼクシオンから目を離さない。欲深い目に捉えられるとぞくぞくと身体の芯が疼いて、刺すような痛みは次第に甘みを帯びていった。
 下腹部に一滴ずつ熱いものがたまっていくような感覚に打ち震えながら、ゼクシオンは唇を噛み、永遠に続くかのような甘い痛みに没入していく――。

 

 情事の後のように乱れたベッドの上で、遠くにマールーシャの声を聴いた気がした。茫然自失となったゼクシオンに終わったと告げ、マールーシャは身体を離してようやく脚を解放した。だらりと脱力して息を吐くゼクシオンに、マールーシャはかがみこんでそっと髪に指を通す。

「よく耐えたな。起き上がれるか」

 こくりと頷いてゼクシオンは差し伸べられたマールーシャの手を借りながら身を起こした。恐る恐る覗き込むと、触れられていた脚の部分だけ痛々しく真っ赤に腫れ上がっている。そしてその肌の上にぽつと黒いそれが浮かび上がっていた。黒く際立つそれを、ゼクシオンは食い入るように見つめる。

「……蝶?」

 大きさにして親指くらいの小さな漆黒の蝶が、足の付け根で静かに羽を広げていた。小さいながらに羽の模様まで克明に彫られている。くっきりとした黒が羽先からじわじわと広がるようなグラデーションまで美しく施されており、初挑戦にして見事といえなくもない出来に思えた。

「へえ……悪くないんじゃないですか」
「お気に召したなら幸いだ」

 マールーシャは澄ましてそう言うと、辺りに置かれたままになっていた道具を片付けた。どきどきしながらゼクシオンは手を伸ばしてそっと蝶に触れた。まだはっきりとした熱をもった肌の上で針の通った跡はみみず腫れのように浮き上がっていたが、黒い蝶は今まで図鑑で見たどんな蝶よりも美しく、艶めかしく思えた。
 新しい自分の一部。消えない彼の情欲の証。ゼクシオンは一目で気に入った。

「花でも彫るのかと思いました」

 戻ってきたマールーシャにゼクシオンは告げた。内心では十中八九花だろうと踏んでいたのだ。

「それでもよかったが」

 マールーシャはそう言いながら隣に腰を下ろすと、自慢の作品を一緒に眺めた。

「蝶に花は必要だろう」

 いつも通りの優美な表情で彼はそう言った。自信に満ちたその物言いに、ゼクシオンも思わず頬を緩めて答える。

「花にも蝶は必要でしょうしね」

 マールーシャは答えなかったが、満足そうに目を細めていた。ゼクシオンとて、この奇妙な口説き文句をどこか気に入っていた。

 ふうと細く息を吐いてゼクシオンはようやく気を緩めて全身の力を抜いた。痛みに縮こまっていたせいで身体が節々まで痛かった。うっすらと汗ばんだ肌をマールーシャが優しく抱き寄せる。

「ゼクシオン、綺麗だ」
「どうも」

 適当にあしらうと不意に視界が陰った。見上げると、マールーシャがすぐ近くで見つめている。うっとりとした瞳がゼクシオンを欲していた。この目は、嫌いじゃない。
 応えるように目を閉じると、すぐに想像した通りの熱が唇に触れる。柔らかい唇と舌とが口内に入り込んで真っすぐゼクシオンを求めた。ああ、ずっと欲しかったんだ。欲をかいた触れ方にいじらしさを感じて、一度は落ち着きかけたゼクシオンの身体がまた熱くなる。淫靡な水音に加え吐息に乗って甘い声が口の端から漏れだすと、そのまま後ろに押し倒されるのをされるがままに受け入れた。

 術後の身体を労るつもりはないらしい。啄むような口付けをかわしながら、マールーシャの手が脚を開かせ、腿を撫で、まさに今彫り終えた作品の上に指を置いた。まだ赤々と腫れているそこが急に熱を増したように思えゼクシオンは息を飲む。

「実にいいものが見れた」

 指先に力を込めたまま言うマールーシャは満足そうだったが、「しかし、」と眉をひそめる。

「ぐ、あぁっ⁈」

 同時に爪が腿に強く食い込み、焼き印を押されるような痛みにゼクシオンは思わず声を上げ仰け反った。

「妬けてしまうな。細いばかりの針が、お前をこんなにしてしまうなんて」

 マールーシャはそう言うと腿から指を滑らせ、すでに固く勃ち上がり先端を濡らしたそれを下着の上から指でなぞった。とくとくと穏やかになりかけた鼓動がまた強く脈打ち始める。
 息を荒げながらゼクシオンはマールーシャを睨み付けた。もう服の上からわかるくらい熱くそこを昂らせているのは相手だって同じだ。
 ゼクシオンの目に映る熱を見て、マールーシャは下着の縁に指をかけるとそのまま最後の布を容易く奪っていった。与えられた印だけを身体に纏い、ゼクシオンは求められるまま、欲しいままに身体を開く。このあとやってくる底知れぬ悦びを、身体はもう知っている。滑らかな愛撫に全身がとろけそうなのに、触れて欲しい部分は熱を帯び固く尖っていった。焦れてマールーシャの服の隙間に手を差し入れると、触れる素肌は燃えるように熱い。
 無言の催促を受け、マールーシャが身体を離して服を脱いだ。入ってこようとしているのがわかると、ゼクシオンも身を起こしていつもの体勢になろうとした。シーツに手をついて、身体を捻る。

「そのままでいい」

 低い声が飛んできたと思ったら、振り返る間もなく肩を掴まれてまたシーツの上に乱暴に倒された。見上げると、目の覚めるような青い瞳がこちらを真っすぐ見据えている。

「見えなくなるだろう、せっかく彫ったのに」

 諫めるような声を受け、ゼクシオンははっとして視線を脚の間に落とした。二人の間で、蝶が艶めかしく浮いているのが見える。目立たない位置にあるのに、マールーシャが脚の間に入り込むとその存在はむしろとても目を引いた。
 促されるように唇を食まれ、しかたなくゼクシオンはその体勢のまま口を開いて舌を伸ばした。意思をもって生きているかのようにのたくる熱い舌に翻弄され、だらしなく開いたままの口角からはもうどちらのものともわからなくなった唾液が零れ落ちていく。零したくない、とゼクシオンの意識が逸れかけると、瞬時にそれに気付くマールーシャは絡ませたままの舌に歯を食い込ませた。

「ん――……!!」

 声にならない悲鳴が、そのまま飲み込まれていく。
 噛まれたところに意識が集まり瞬時に熱くなった。いつも通りの感覚。でも今日は、際立って脚が痛い。ドクンドクンと脈打つそこは、まるで蝶に鼓動があるかのように激しく疼いている。
 痛みに身体を捩りもがき、ようやく唇が離れると、口の中には少し血の味が残っていた。息も絶え絶えに朦朧と酸素を求めていると、不意にマールーシャが声を上げる。

「ああ、やはりこの方がいいな」
「は……」

 なんのことかと我に返り見上げると、マールーシャと目が合った。胸の内まで見透かすような強い眼差しにどきりとして目を逸らしかけるも、顎を掴まれて情熱的な瞳に捉えられてしまう。

「いつも逃げるように顔を背けてくれるが、やはりこうして顔が見えた方がいい」

 覗き込む目の奥に自分の姿が朧気に映って見えた、気がした。はっきりとその姿を見るより先に長い睫毛は伏せられ、ゼクシオンの意識もまたマールーシャの体温を受け入れた後は蕩けて有耶無耶になってしまった。

 与えられる痛みと熱とが、脈打つ度に血潮に乗って体中を巡り全身へと広がっていく。彼の付けた消えない跡がいつまでもそこにあるのかと思うと、内側から猛る熱に思考が焼き切れそうになる。
 こんなことをしたって何の意味もないのに、必死で奥を目指す彼が、それを余すことなく受け入れようとしている自分が、滑稽でたまらない。一滴も零すまいとお互いが身体を深く深く交え、押さえ付けるようにして奥に奥にと注がれる。何一つ残さず身体の中に留めていたくて、その瞬間は、息をすることさえできない。
 そんな愚かしい行為の果てなきを、ゼクシオンは望まずにはいられない。