五夜 - 2/3
数駅電車に揺られ、降りたことのない駅で改札を抜けた。手ぶらでいいと言われたものの、差し入れと称して道中でいくつか飲み物を調達した。あれだけ飲んでまだ買うのかとマールーシャはあきれている。楽しそうなゼクシオンとは対照的にマールーシャは未だに渋い顔をしていた。いったい何を隠しているのやら、彼の秘密に触れられるかもしれないと思うとゼクシオンも浮き足立つような気持ちでいた。
案内されたマンションは、全く想像通りのものだった。駅の近くの高層マンション。誰が見てもここに住んでいると聞いたら羨ましく思うことだろう。持ち家? と問うと、まさか、と彼は首をすくめた。高速のエレベーターに乗って彼が押すのはやっぱり上層階。ここまでは予想通りだ。
高い天井に最低限の家具。スタイリッシュな家具は厳選されたものばかり――。そんな洗練された空間を想像していたので、いよいよ足を踏み入れた自宅の玄関でまず山積みとなった段ボールの箱と対面して首をかしげることになる。
「ええと、これは?」
「ああ……潰す暇がなくてな。時間が出来たらまとめて捨てに行こうと思ってここに積んである」
「はあ……」
広い玄関なのに、乱雑に積み上げられた空箱がスペースを食いつぶしていた。不安定なそのタワーを崩さないよう、ぶつからないように身体を細くしてゼクシオンは靴を脱いで上がり込んだ。マールーシャは慣れた様子で箱を押さえつけながら横を通過していく。ゼクシオン自身のワンルームの部屋とは違った広そうな空間がある気配がするものの、なんとなく淀んだ空気を感じて訝しげに足を進めた。なんだか怪しい雰囲気になってきた。
マールーシャが手を伸ばし照明を付けたとき、明るくなった部屋で眼前に広がる光景を目の当たりにして、ゼクシオンは今度こそ言葉を失った。
「な……なんですかこれは……!?」
リビング一帯にびっしりと段ボールが積まれている。床がほとんど見えないほどに、乱雑に積まれた段ボールはどれも書類で満杯だ。あふれ出した書類すらもそこかしこに散らばっていた。
「ひ、引っ越しのご予定が?」
「職場が、な」
聞けば、職場の移転業務に伴い個人の管理する大量の資料を持ち帰らねばならず、一時的に自宅が倉庫となっているのだとマールーシャは話した。話しながらダイニングテーブルに置かれたものをがさがさと横に移動させ、ゼクシオンの買ってきたものを机に置いた。個人が管理するにしてはすごい量である。
「……どんな仕事してるんですか」
「企業秘密」
そういってマールーシャはにこっと微笑んでみせた。ここは格好つけるべきところではないはずなのだが、格好がついてしまうのがなんだか癪だ。
「……まあ仕事の都合という事ならば仕方ない、ですね。ここはとても住めたものじゃないですけど、寝室は別であるようですし」
「それが申し訳ないんだが、この資料たちのせいで居間にあったものが寝室に流れ込んでいる状況だ」
「え」
居間に隣接した寝室に通されて、その惨状を目の当たりにしたゼクシオンは眩暈に似たものを感じる。
寝室も広さはあるであろうものの、足の踏み場がなかった。多くは書類、もしくは本、あるいは衣類。それらが雑多に、なんの秩序もなく、床に好き勝手に広がっていた。ベッドの上にまで山と積まれた書類。家でも仕事をするのだろうか。と考えかけていや、と首を振る。こんな環境で捗るはずがない。
「テレビで見たことあるやつ……」
「失礼だな、生ごみの類いはない。はずだ、たぶん」
語尾が失速していくので何も信用ならない。頭を抱えてゼクシオンは唸る。
「嘘でしょう……信じられない。イメージとかけ離れすぎている」
「だから言っただろう。何を勘繰っていたんだか知らないが私は忠告したからな」
うんざりした様子でマールーシャは言った。
「この中でどうやって生活するっていうんです」
「寝るだけならさして問題もない。今日だってベッドが使えれば問題ないだろう」
そのベッドとやらから物をあちこちに移しながらマールーシャは言い返した。徐々に姿を現していくベッドの全容。確かに広い……かもしれないけれど、やっぱりものが多かった。この蓄積は昨日今日のレベルではないのは確かだ。
全く、女の影どころではない。これではたつものもたたない恐れすらある。
「その辺りなら座れると思うが」
マールーシャがベッドを指さし言った直後、今しがた積んだばかりの本が背後で雪崩を起こした。
ゼクシオンの中で、その瞬間何かが限界点を超えた。
そこからはひたすら掃除に明け暮れた。色気もへったくれもありゃしない。当初の目的? なんでしたっけね。こんな部屋ではそんな気なんて微塵もおこるはずがないのだ。この部屋を片付けて、人間らしい生活を送れるようにすることが今日の目標だ。今決めた。
闘志を燃やしだしたゼクシオンに気圧されるように、マールーシャのほうが協力するような形で真夜中の大掃除が幕を開けたのだった。
幸いにして彼の言った通り生ごみの類はなかったので、ひたすら物を仕訳けて床面積を広げた。書類関係はマールーシャに任せ、衣類は洗濯籠にまとめた。乾燥機付きの洗濯機で衣類を回している間に、仕事関係のものはマールーシャごと居間へ追いやり、空いたスペースを拭いて回った。ものが多かっただけでしつこい汚れなどはほとんどなく、見る間に部屋は見違えるように整頓されていった。
こんなものかとようやくゼクシオンが納得できる状態になった時にはもう明け方近かった。窓から外を見ると、立ち並ぶビル群の間が明るくなり始めているところだった。一心不乱だった。初めて上がる家で、恋人でも、友達ですらないのに何をこんな必死になってしまったんだろう、と冷静になっていくが、床中水拭きまでしてすっきりと爽やかになった部屋を見てマールーシャはすっかり明るく嬉しそうにしていた。
「ありがとう、こんなに床が見えているのは久しぶりだ」
感心した様子でとんでもないことを言うのでそれを聞いてゼクシオンはげんなりする。
「綺麗好きなんだな。そういえば家もきれいだったものな」
「なんかもう……シャワー浴びたい……」
「おかげで広いベッドが戻ってきたぞ。見ろ、どこでも座れる」
「それ、シーツとか、早いうちにコインランドリーに持って行った方がいいですよ。聞いてます?」
聞いてなさそうだけど……まあいいか。碌な生活をしていなさそうだったから、これくらいなら。
そう考えていると、マールーシャがゼクシオンを見て言う。
「ベッドの寝心地、試してみようか」
気を許したようなとろんとした目で見つめられると、とうの昔に忘れかけていた感情が身体の奥で呼び覚まされたのを感じた。
「先にシャワーでしょ」なんて言いつつ、誘う視線に抗えずゼクシオンはベッドに上がる。ベッドマットは自分の家よりも柔らかく沈むタイプだった。
ベッドに乗り、二人で身体を横たえた。伸びてきたマールーシャの腕に抱き締められた。
「君が私の部屋にいるなんて」
抱き寄せられ耳元でマールーシャは夢みたいだと囁いてくすくすと笑った。耳にあたる息がこそばゆい。
「なんですか、今更酔いが来たんですか」
なんだか調子が狂わせられ、腕に抱かれたままゼクシオンは胸元で呟いた。機嫌良さそうなマールーシャはそのままの体勢でゼクシオンの背を撫でていた。
「……僕、部屋の掃除だけをしに来たわけじゃないんですけど」
胸元でそう言いながらゼクシオンはマールーシャの腰に手を回した。そっとシャツを引っ張り、隙間から手を差し入れる。温かい肌に触れ、いつもの調子でするすると撫で上げた。期待の眼差しで相手の反応を見ようと顔をあげると…………マールーシャは寝ていた。
「…………」
文字通り確認できた『寝心地』は抜群のようである。
散々振り回された今日を思ってゼクシオンは長いため息をついた。この僕を振り回すなんていい度胸だ。けれど、そんな彼から目が離せない。
「あーもう、いいですよ今日はもうこれで。先にシャワ―お借りしますよ。いいですね。聞いてます?」
聞いているはずないのであった。
優しく抱かれている腕から逃れるのは惜しい気もしたが、ハウスダストまみれでこのまま眠る気にはなれなかったので、なんとかベッドを抜け出すと部屋を出て勝手にバスルームへと向かった。さすがにバスルームに書類は持ち込んでいなかったようで、脱衣所も浴室もきれいにされていた。本来の彼の領域に一番近いのはここかもしれない。
熱いシャワーを浴びてから寝室に入る手前、ここに来る道中で買いだした缶ビールがビニールに入ったまま忘れ去られているのを見付けた。冷蔵庫に入れることも忘れてすっかりぬるくなってしまっていた。甘い雰囲気でグラスを傾けていたのは遠い彼方の記憶だった。そもそも今日って甘い雰囲気だっただろうか。全く、労わるどころの話ではない。この妙な仕事をやり遂げた記念にプルタブを引くか少しだけ悩んだけれど、結局飲まずにそれらを冷蔵庫に入れなおした。
戻ってみると、マールーシャはもう二度と起きないぐらい熟睡していた。呼びかけても、頬をつついてみても、返ってくるのはいびきのみ。念のため準備もしたというのに。
ベッドはさすが広いだけあって、彼が眠りこけていても自分が潜り込むスペースはちゃんとあった。
電気を消して隣に並ぶと、自分も疲れていたせいかすぐに微睡みが訪れ、夢も見ず眠った。