五夜 - 3/3
「失礼します……げ、何もない」
翌朝になり、いつもの習慣でゼクシオンが早い時間に起きると、マールーシャはまだ深く寝入っていた。空腹の限界でベッドを降りたゼクシオンは冷蔵庫を覗くも、がらんどうの有様に愕然とする。昨日入れた缶ビールのほかには、飲料水とジャムくらいしか入っていなかった。家で食事はとっていなかったのだろう。本当に寝に帰るだけの生活を送っていたのだなと彼の多忙を想像した。とはいえ同情しても腹は減る。マールーシャに声を掛けども、まだ起きる気配はない。
玄関の棚の上には鍵が置かれていた。カードタイプで、エントランスも玄関口もかざすか身に着けているだけで通過できたのを昨日見ている。迷ったもの、決して他用はしないと心の中で誓ってそれを拝借して近場で食料の調達に出掛けることにした。ジャムがあるということはパン派だろう。トースターがあるのも確認した。火を使わなくてもいいものを見繕って、マンションのすぐそばにあったコンビニで二、三買い物をしてすぐに戻った。借りたものはきちんとあった場所に戻して。出入りをしてもマールーシャはまだ寝入っている。
電気ケトルで湯を沸かし、買ってきたパンを焼いて、ヨーグルトを並べる。朝日差し込む室内はやっぱり雑然としているものの、明るさによりその全容が明らかになった。リビングエリアは段ボールで埋もれているものの、やはりそれなりの広さがある。ダイニングとキッチンには段ボールの侵食を許していないようで、テーブルの上のものも昨夜マールーシャが動かしていたおかげで食事をとるのに問題ない程度のスペースは確保できていた。
インスタントコーヒーを入れようとしたところで、ようやく寝室で人の動く気配があった。やがて寝室から出てきたマールーシャは、自分の自宅でゼクシオンがすっかり朝食の支度を整えているので面食らっている様子だった。
「おはようございます、よく眠れましたか?」
「おはよう……いつから起きていたんだ」
「ずいぶん前から。こう見えて僕、朝型なんですよね」
はきはきと喋るゼクシオンと対称的に、まだ半分寝ている頭で現実が呑み込めていないようでマールーシャは目を瞬かせるばかりだった。
「先にコーヒー飲みます?」
「食べるものが家にある……」
「買いに行ってきました。昨日寄ったコンビニ、すぐ近くだったので……鍵はお借りしました」
正直に白状すると、さすがにマールーシャはいい顔をしなかった。感心しないな、とつぶやいてしばらく周囲を眺めていた。変化がないか探しているようだった。素直に謝罪をし鍵を借りた以外は誓って何も触れていないと説明すると、一応納得してくれた様子でやがて洗面所へ向かっていった。戻ってきたときには幾分かすっきりした顔になっていた。
「食べ物の類、何もなかったものな。手間をかけさせてすまない……部屋のことも」
「とんでもないですよ、全部僕の勝手にしたことですから」
ゼクシオンはそう言って手を振った。彼が謝ることなど何一つない。本当に、全部自分が勝手にやりだしたことだ。家に来たがったのも、部屋の掃除を敢行したのも、朝食を用意して彼を迎えたいと思ったのも。……おや、なんだかだいぶ世話を焼きすぎているような気がする。
マールーシャはふっと柔らかい雰囲気に戻って笑ってからキッチンの方に向かった。
「コーヒーは私がいれよう。ドリップコーヒーなら簡単なものがあるんだ」
そう言って棚から二つカップをとりだすと、瞬く間に朝食の席を仕上げてくれた。カップは種類の違うマグカップが二つだった。本当に、誰かを家に招くことがないのだなとゼクシオンはそれを見てぼんやり考えた。
テーブルに向かい合って朝食を取るあいだ、正面に座っている相手を眺めた。マールーシャはまだどこか眠そうにしていて、自宅だということもありくつろいでいる様子だった。コーヒーはブラックだけど、当たり前のような顔をしてヨーグルトにジャムを入れすぎていた。予想していた秘密なんて一つもなかったけれど、彼の知らない姿を目の当たりにする方が断然面白い。
「ちゃんとご飯食べてるんですか? 冷蔵庫、うちよりひどいですよ」
「外で済ませてくることが多いんだ。忙しいときは特に。君の家は酒だらけなだけじゃないか」
「それはそうと……ねえこの部屋、予備の鍵とかないんですか」
急な話題の転換に、マールーシャはまた何の話だといわんばかりに目を瞬いた。
「マスターキーが別であるだけだ。渡す相手もいない」
「じゃあ、僕に作ってくださいよ、合鍵」
なぜ、急に自分がそんなことを言ったのかわからない。けれどゼクシオンは気付くと今思いついたばかりの提案をそのまま口にしていた。
言ってから自分の突飛な行動に驚かされる。昨日から、こんなことばかり。どうしたというのだろう。
当然マールーシャも驚いていた。訝しげにその意図を探ってくる。
「何のために?」
「そりゃあ、ここで会うために。僕、料理もけっこう得意なんですよね。あとやっぱりベッド広くてよかったですし。今度はちゃんとベッドも使いたいなあなんて。あなたも自宅で過ごした方が気が休まるでしょう」
まくしたてるように、言葉がとめどなく出てきた。事実、そうやって話す時間を思うとなんだかわくわくしていた。
名案とばかりに話すゼクシオンに反して、マールーシャは黙ってそれを聞いていた。
やがてマールーシャは手に持っていたカップを机に置いてぽつりと呟く。
「必要ない。会うときは私が行く」
しん、と空気が静まり返った。もともと音のない部屋であったにもかかわらず、彼がそう言った後、明らかに空気が静かな、冷えたものへと変わったのを肌で感じた。
「そう」
ゼクシオンも短く答えた。深追いはしなかった。
そりゃあ、そうなるよな。散々自分の方に踏み込ませまいとしてきたのは自分の方なのだ。
「ということは、部屋の清潔がどれだけ保たれるかが楽しみですね」
「ぐ……」
飲みかけていたコーヒーで咽そうになりながらマールーシャが呻いた。
ふたたび温度を取り戻した空気の中でゼクシオンもくすっと笑みをこぼし残っていたコーヒーに口を付ける。
時計を見ると、この家に来てから半日ほど経とうとしていることを知った。
身支度をして、マールーシャの家を後にした。駅まで送ろうというマールーシャの申し出を丁重に断り、けれど別れ際にもう一度だけゼクシオンは言う。
「鍵のこと、考えておいてくださいね」
自分がなぜこのことにこだわるのかわからなかった。珍しく執着を見せる様子にマールーシャも驚いている様子だ。
返事は待たず、ゼクシオンは背を向けて歩きだした。
なんだか走りだしたいような、むずがゆい感情が自分の中に渦巻いていた。
20240108
(20240331加筆修正)