六夜 - 2/3

 頼まれた飲料水のほかにも、簡単に食べれそうなものを見繕って買い物を済ませてからマールーシャはゼクシオンの自宅に向かった。

「すみません、買い出しなんて頼んで……それもこんな時間に」

 迎えてくれたゼクシオンはそういってマールーシャを家に上げると丁寧に礼を述べ、仕事帰りの姿のマールーシャを見て、スーツ、似合ってる、と目を細めた。顔色は悪くはなかったが、いつも眼に宿している勝ち気で余裕そうな色は今日はなく、すっかりおとなしくなっていた。仕事後に来たので遅い時間だった。待たせてしまったことだろう。

「いいんだ、こういう時くらい頼ってくれ」

 事実、頼られたことを嬉しく思っていた。言われてもいないものまであれこれ買い込んでしまったことを迷惑だっただろうかと危惧するが、充実した買い物袋を見てゼクシオンは純粋にありがたがっているように見えた。飲料水を何本か買ってそれなりの重さになっていたのでマールーシャがそのまま部屋の中まで運んだ。

「……まさか酒なんて飲んでいないだろうな?」

 冷蔵庫に買ってきたものをしまいながらマールーシャは聞く。飲み物の在庫はアルコールしかない。

「さすがに控えていますよ。だからこうして貴方に頼んだんじゃないですか」
「近くに頼れる人はいないのか? 友人とか、家族、とか?」
「いませんねえ」

 短く、しかしはっきりとゼクシオンは答えた。牽制されたような気もしたのでそれ以上聞くことははばかられた。改めて彼のことを何も知らないのだと気付かされる。けれど逆にわかったのは、少なくとも今彼の手助けになれる人間はとても少ないということ。そんななかでタイミングが良かったのもあるが、自分に声がかかったことは純粋に嬉しかった。せめてこんな時くらい助けになりたい。

「……そういえば、話があるとか言ってましたっけ」
「そんなことは今はいい」

 こうともなると事情が変わってくる。今後の話をするにしても、まずは回復してもらってからだ。心身共に弱りきっている相手とする話ではない。ふうん、とゼクシオンは気にしている素振りではあったが、それ以上聞いてはこなかった。

 治りかけていると語るもののまだ鼻声だし、ぼんやりとして家のことができそうにも見えなかったので、簡単に食べれるものを作ろうかとマールーシャが提案した。スープなら食べられるだろうか、と聞くが、ゼクシオンは買い物の袋の中をじっと見つめている。そうして、一言。

「……りんご」

 ああ、とマールーシャはそばによって袋の中から真っ赤なりんごを手に取った。果物は具合の悪いときによく登場するような気がしたから買ってみたのだ。

「りんごが好き?」
「考えてみたらあまり食べたことないですね……りんごを使うレシピってなかなかないですし」

 ゼクシオンの言うレシピとは、おそらくカクテルのことをさしているのだろう。柑橘系とちがってりんごを添えるカクテルというのは確かに見ないような気もした。

「剥いておこうか」
「ひと続きに剥けます?」
「やってみてもいいが……剥くのは一度で食べる分だけにした方がいいと思う。変色するから」
「色くらい構いませんよ、見せてください」

 そう言って果物ナイフを用意するゼクシオンは少し楽しげに見えた。りんごの皮剥きなんて初めてやるのでやや緊張したけれど、くるくるとりんごを回しながら丁寧に刃を当てると思いの外きれいに剥くことができた。ゼクシオンが興味深そうに見入っているのが気分よく、結局まるひとつ剥いてしまった。

 無事皿に盛られたりんごを献上したあと、しばらくゼクシオンが無心でりんごを齧る音を聞きながら、マールーシャはなにをするでもなく部屋を見渡した。いつ来ても物が少なくてすっきりとした部屋である。体調不良の時なんて乱れていてもおかしくないというのに、床には物ひとつおかれていない。家具のセンスもモノトーン調で統一されていて洗練された印象を受ける。自分の散らかった部屋を見たとき、ゼクシオンは嫌悪感を露わにしていた。彼のそういうストレートな感情を目の当たりにするのはあのときが初めてだったかもしれない。よく見放されなかったものだと思う。玄関を見てきびすを返されたっておかしくなかった。その後の鍵問答といい、今までになかったゼクシオンの感情の現れをわずかに感じる。例えるなら、執着に似た何か。……執着? まさか、彼が? その意図はいったい……。

 深みにはまりそうになったところで、ごちそうさま、と声がしてマールーシャは現実に引き戻された。見るとゼクシオンがフォークをおいたところだった。まるひとつぶん剥いたりんごのうち皿に盛ったのは半分程度にとどめていたけれど、それらはきれいになくなっていた。

「よく食べたな……食欲があるようで安心したよ」
「食べ始めたら止まらなくなってしまって。食欲も戻ってきたし、もう大丈夫そう」
「あとはその鼻声が治ったら、だな」

 そういってマールーシャは立ち上がると食べ終わった食器をキッチンへと運んだ。シンクも冷蔵庫も、何一つ無駄なものはでていなかった。本当に彼はここで生活をしているのだろうかと考えると不意に背筋が寒くなった。どんなに近くにいたって、ゼクシオンという人間はいつだって掴みどころがなさ過ぎた。

「何のおかまいもできずすみません」

 ゼクシオンはベッドに戻ったが顔色は良さそうだった。食欲もあるようだし、飲料水や食べれるものもある程度用意したから心配はなさそうに思えた。

「気にしなくていい。今日はそういうのじゃないから」
「……あの、もうひとついいですか」
「なんだ」
「添い寝をしてほしいんです」
「え」

 マールーシャは思わずかたい声を出した。それは、つまり?

「さすがに今日は」
「添い寝ですよ、そいね。なにもしなくていいんです、隣りにいてくれれば……ほら、あなたは体温が高いし。実はいつも助かってるんですよね、僕冷え性なので」

 ゼクシオンはよく喋ったが……尚更意味が分からない。
 マールーシャが面食らっていると、ゼクシオンはふっと笑みをこぼした。

「すみません、冗談です。風邪をうつしてもいけませんしね」
「……狭くて潰れてもしらないからな」
「えっ」

 言うやいなやマールーシャが身を乗り出してベッドに膝をついたので、今度はゼクシオンが頓狂な声を上げて聞き返す番だった。自分から提案しておいてなんだその反応は。けれど、目を伏せたときの彼の顔がらしくもなく寂しげに見えてしまって。そんなはずなかったとしても、そのまま彼を一人にして帰ることは到底できなくなっていた。
 膝に伝わるスプリングの軋みはよく知ったものだったけれど、病人相手だからか変な気を起こすこともなく冷静でいることができた。同じベッドに乗ったので距離がぐんと近付いた。暗いゼクシオンの瞳の中に複雑な色を見た瞬間、ぐっとこみ上げるものがあった。――冷静、だったのだろうか。欲情こそしなかったけれど、肉欲とは別の大きな感情が確かにそこにはあった。

 間近でマールーシャを見つめながらゼクシオンは眉をひそめる。

「貴方って本当にお人好し。そんなに何でも人のいうこと聞いていて大丈夫なんですか? 余所で都合のいいように使われてません?」
「まあ……私がしたくてやっていることだから」と言ってからマールーシャは、少し迷ったが結局素直な思いを口にした。「誰にでもこんな世話を焼くわけではない」

 相手の反応をそれとなくうかがうが、以前見せたような嫌そうな表情ではなかった。ふうん、とこちらを見つめるゼクシオンは、意外にもまんざらでもなさそうに見えた。

「貴方にそんなこと言われたら、きっとどんな相手でも夢中になりますよ」
「生憎、本命の相手にはぜんぜん手応えが感じられないんだがな」

 マールーシャは冗談めかして笑った。少々皮肉のつもりではあった。ゼクシオンも控えめに笑う。

「変わらずによくしてくれますね。僕がこんな性格でも」
「言っただろう、大事にしたいから……気持ちは変わっていないよ」

 ゼクシオンがため息をついた。この話をするには早尚だったかと危ぶむ。けれど二人の関係について言及するのに、今こそが丁度いい機会かもしれない。
 ふと思った。彼も、実のところ話がしたくて引き留めたんじゃないだろうか?

「貴方の言う大事にしたいって思うことが、どういう感情なのかわからないんです」

 ゼクシオンは目を伏せたまま独り言のように言った。一定のトーンで語られる言葉から感情は読み取れない。

「貴方の誠意は伝わっています。貴方は本当にいい人だと思うし、誠実で、だからこそ僕なんかにはもったいない。なぜ僕に対してそう思えるのか、理解できない。……あなたの誠意を重いと思ってしまうのも、きっと僕が今までに表面上の付き合いしかしてこなかったからでしょうね」

 俯くゼクシオンを見てマールーシャは思う。それは彼にしては珍しく弱々しい思考の吐露だった。体調が悪いときはえてしてネガティブな思考に囚われるものだから、ありがちと言えばそうなのだろう。けれど、彼の本音に触れられるのはまたとない機会だ。
 彼の誠意に真剣に向き合おうとマールーシャは慎重に言葉を選ぶ。

「……この気持ちを言い換えるとするならば、そばにいたい、という言葉に替えられると思う」
「なぜ?」
「奔放で、目が離せないからかな」

 マールーシャはそう言って悪戯っぽく笑った。それは彼の言う誠実な気持ちというよりも、なんだか幼少期の恋みたいな気持ちだと思った。

「気になって仕方ないんだ。掴みどころがないところも惹かれてやまない。だから放っておけなくて、そばで見ていたいと思う。今日のように手助けが必要なときにすぐ駆け付けるのは自分でありたい。もちろん君に同じことを望んでいるのではなく、私がそうしたいというだけの話だ。それだけじゃなく、君と過ごす時間は私にとって居心地のいいものなんだ」

 いつだって取り決めた待ち合わせよりも早く合流することや、酒の趣味が合うこと、言葉を交わすときの独特なテンポだとか、そういった些細な波長が合っていること。そういった相性の良さがあって、一緒にいるときに自分らしくいられる。利己的に振る舞っているようで、彼の根の部分はちゃんと誠実なのをマールーシャは知っていた。それゆえ多少振り回されたとしても彼相手ならそれすら夢中にさせてしまうのだ。
 それに、上辺ばかりの付き合いで誰にも心を許せないでいるけれど、彼だって本当は愛されたいのではないだろうか。憶測だとしても、彼が時折見せる寂しげな表情が、もうどうしようもなく心を掴んで離さないのだ。……これは本人には言わないけれど。

 顔を上げたゼクシオンの眼を見つめた。真っ直ぐにこちらを見つめ返す透明な瞳を慈しむ。精一杯向き合おうという意思が映っているまなざしに胸が熱くなった。
 垂れかかる前髪を手で払いマールーシャは続ける。

「……君の望む関係を不誠実だと言ったことを謝りたい。人の気持ちに正解なんてなかったんだ。私が大事にしたいことと君が大事にしたいことに相違があるのもまた当然のことだ。それでも、」

 いつしか大きく見開かれたゼクシオンの瞳を真っすぐに見つめマールーシャは言う。

「互いの望む形が違ったとしても、変わらず今まで通りの在り方で私は君といたいと思う……これが、私の君への感情だ」

 言い終えてマールーシャは気付く。自分は相手を納得させたいのではなく、自分を納得させる言葉を探していたのだ。
 自分自身、ゼクシオンとの関係性とその名前にずっと納得できないでいた。不透明を透明にしたらもっと納得のいく関係性になれるとばかり思っていた。けれど、そうではない。どちらかが折れる必要などなく、互いが今のままで在り続けること。それだけでよかったのだ。
 そして、それを伝えることができた。言いたいことはあますことなく伝えられた。悔いはないと思った。

 ゼクシオンはしばらくじっとマールーシャの目を見つめていたが、やがてそっと息をついて目を伏せた。

「……あなたって本当に不可解。あなたのことも、あなたの考え方も、今の僕には理解できない」

 ゼクシオンは相変わらずマールーシャの言葉に理解を示そうとしなかった。けれど、それでもよかった。清々しい気持ちでマールーシャは静かに頷いた。どんな彼の言葉も、意思も、受け入れる気持ちになっていた。たとえそれが優しい拒絶だったとしても。

 

「……でも」

 しかし不意に続いた言葉に、マールーシャは耳を疑う。

「これからわかりたい、と思う。あなたのことを」

 そう言うと、ゼクシオンはおずおずとマールーシャを見上げた。

「……今は、それでもいいですか」

 その目には静かな誠意を感じた。
 マールーシャが言葉を失っていると、ゼクシオンは極まり悪そうに「驚きすぎですよ、なんとか言ってください」と呟いた。

「十分だ」

 胸がいっぱいになった。抱き締めたいのを堪え、しかしマールーシャはゼクシオンの手を取る。熱のせいか握った手が熱かった。
 やっとゼクシオンが頬を緩めた。力を抜いたとき、笑うと目じりにうっすらと皺が寄るのをそのとき初めて知った。いつも肩肘張って小さな自分の世界を守ろうとした彼が、その結界を和らげた瞬間を目の当たりにした。目が離せなかった。

 ああ、もっと感じていたい、彼の見せるあらゆる表情とその感情とを、彼のそばで。

 マールーシャは痛いほど切望する。