六夜 - 3/3
思いついたようにゼクシオンは言った。その突拍子のなさは、柔らかい雰囲気から一転していつもの調子であった。対してマールーシャはさっきのやり取りですっかり照れてしまって、そろそろお暇しようかと言いだそうかとすらと思っていたところだ。またしても引き止められることとなった。
「明日も仕事?」
「休みだ」
「じゃあいいじゃないですか。一緒の布団が気になるのでしたら客用布団もありますよ、まあ簡易なマットレスですけど」
そう言うとゼクシオンはベッドから降り立った。一緒の布団が嫌なわけはないのだけれど、彼は相変わらず自分が体調不良なのを気にしている様子だった。先ほどのやり取りの後ということを考えると、この提案を今までよりは好意的に受け取ってもいいように思えた。多少なりとも心を許してくれたのだろうか。握った手は柔らかく解かれたけれど、不安な気持ちはなかった。マールーシャも腹を決めた。
「ではお言葉に甘えようかな。と言ってもなんの準備もないんだが」
「部屋着で良ければお貸ししますよ。マットレスよりもそっちの方が窮屈でしょうけど」
確かにそれは問題である。その姿を想像すると苦笑も起きないが、同じく想像したであろうゼクシオンは愉快そうだった。
「マットレスはどこにあるんだ。大きいだろうから私が運ぼう」
「納戸の中に入って……う、」
一歩踏み出したかと思うと、ゼクシオンは急に頭を押さえて頭を垂れた。様子の急変に慌ててマールーシャはゼクシオンを支える。
「どこか痛むのか?」
「いえ、急に立ったから……ただの立ち眩みです、すみません」
ゼクシオンはそう言って首を振った。触れた肩をマールーシャはみつめる。なだらかな肩に添えた手にそっと力を加えると、ゼクシオンは自然にマールーシャの方へと一歩寄った。
「君が嫌でなければ、私はいつもと同じで構わない」
「……そういえば、添い寝してもらうんでした」
ゼクシオンはそう言うと、マールーシャの腕の中でそのまま静かに身体を預けてきた。思わず生唾を飲み込む。彼が、肉欲を抜きにしてこんな風に接してくれたのは初めてだった。強く抱き締めたい衝動をなんとかこらえる。互いが真摯に向き合って得られたこの時間を、今日はいつもの惰性的な性欲で上塗りしてしまいたくなかった。名残惜しい気持ちを押しとどめてゼクシオンをベッドへと促した。
シャワーを借り、部屋着も借り(サイズが合わないのを笑われ)、いつもの自分なら寝るには相当早い時間だけれど、相手の体調も気になるので早めにベッドに入ることにした。「貴方の着るもの、この部屋にも少し置いておいたらいいかもしれませんね」なんて笑いながらもそうゼクシオンに言われると、半端な丈の裾もすぐに気にならなくなった。間違いなく心の垣根は取り払われたように思えた。
狭いベッドの中で慎重に距離をとって横に並んだ。リモコンを取って照明を落とすと、暗闇の中でゼクシオンがぽつりと話しだす。
「この前貴方の家に行ったとき」
「……ああ」 思わず渋い声が出た。
「一緒にいたのに何もなかった夜って初めてでしたね」
「あれは……すまなかった……」
あまりの情けなさに暗闇の中でも顔を覆いたくなる思いだった。マールーシャの様子にゼクシオンは少し含み笑いをして、さらに続ける。
「……そう言う時間が、あってもいいかもしれないと思いました。これから先も」
今日がそうであるように。
暗さに慣れ始めた目で隣を見ると、ゼクシオンは真上を向いたまま目を開いているのがわかった。
「……眠れないか?」
「ナイトキャップが必要かも」
「今日は我慢してくれ」
マールーシャが苦笑交じりに言うと、不意にゼクシオンがこちらに顔を傾けた。ぎし、とベッドが音をたて、ゼクシオンが身を乗り出したのが気配で分かった。最初に毛先が顔にあたった。伸びた前髪だろう。ぱらりと顔に幾筋か落ちてくるので思わずむっと口を結んでいると、次に静かな息遣いを間近で感じた。淡いソープの匂いが鼻腔に迫り、そうして、柔らかな熱が下唇に押し当てられた。音もたてず、そっと触れてそのまま離れていくあいだ、マールーシャは微動だにすることができなかった。
「……これで我慢しておきます」
そう言ったときの彼の声は、幾分かいつもの調子に近かった。暗くて見えないけれど、いつものように蠱惑的な笑みを湛えているのだろう。暗がりの中にその気配をたどろうとしたが、ゼクシオンは横になったかと思うとこちらに背を向けてしまった。そうしてそのまま、呼吸は深くなっていくのだった。
「……勘弁してくれ……」
穏やかな寝息を横に、すっかり神経を昂らせてマールーシャは頭を抱える思いでいた。冷静な気持ちでベッドに入ったはずなのに、いつしかよこしまな感情が腹の底で首をもたげている。
――互いがこの感情を抱いたまま身体を交えたら、いったいどうなってしまうだろう。
この部屋に泊まるのなんて何度目になるか知れないというのに、覚えたことのない緊張を胸に、マールーシャはいつまでも隣の気配に心揺さぶられていた。
20240331