七夜、そして朝 - 3/3
ベランダには所狭しと鉢が並んでいる。花のついているものだけでなく、葉ばかりのものだったり、背の高いものとそうでないもの、等々多種多様である。こんなに植物があるなんて部屋の中からはわからなかった。東向きらしいベランダには朝日が燦燦と差している。 マールーシャはベランダ中の鉢に一通り水を遣ったあと、しゃがみ込んで一つずつ様子を見て回った。見頃を終えた花を摘んだり、虫がいないか葉の裏まで見ているようだった。まめなことである。鉢と向き合い心を尽くしている様子を、ゼクシオンはベランダと部屋の境のところに立って手伝うでもなくただ眺めていた。朝の空気はまだ少し冷たくて、借りたカーディガンを羽織っていた。澄んだ空気の中に甘い香りが漂っている。清々しい気持ちだった。
点検が終わると、膝を払って立ち上がったマールーシャはようやくゼクシオンの姿を認めた。
「ずっとそこにいたのか? 部屋で座っていてもよかったのに」
マールーシャは如雨露を持ったまま微笑んだ。
「ガーデニングが趣味だなんて、意外」
ゼクシオンはぽつりと言った。花を育てるのが好きだとは知らなかった。彼との話の中でそんな話題が出たこともなかった。いつも夜の光の中でばかり見ていた妖艶な雰囲気のマールーシャと、早朝から小さく背中を丸めながら手を汚している眼前の姿はなんだかうまく結びつかなかった。
「似合わないだろうさ」
マールーシャは朗らかに笑った。そんなつもりで言ったのではない、とゼクシオンは内心憤慨した。むしろ甲斐甲斐しく小さなものの世話をする様子は誠実な人となりによく合っているとすら思った。けれど口にするのは憚られ、結局黙ったままでいた。笑顔が眩しいと思ったのは、朝日の反射のせいだということにしておく。
「ひょっとして、花に興味があるのか?」
「ないですけど」
「あ、そう……」
即答したらマールーシャはちょっと残念そうな表情を浮かべていた。花なんてちっとも興味ない、けれど。
「……ただ、見ていたいと思っただけ」
ゼクシオンはベランダを見つめたまま言った。
見ていたい。そう思った。彼の色々な一面を。夜も、朝も、それ以外の時間も。
それが今、自分の中にある彼への素直な感情だと思った。
目を合わせられずにいたけれど、マールーシャが穏やかな視線をこちらに向けているのが分かってなおのこと気恥ずかしかった。
植物の世話が済んでからようやく人間の食事が始まる。この家で一番いい扱いを受けているのは植物たちで間違いない。
此処に来るのはあの大掃除の日以来だったけれど、大量の仕事道具たちは無事片付いたようで、寝室だけでなく居間も広くきちんと整っていた。心配しなくても、やはりこっちが彼の本当の性分なのだろう。
腰を落ち着けたマールーシャは少し眠たそうに見えた。休日の朝ともなるといつもの凛とした雰囲気とは違ってすっかり気を抜いている様子だった。そういえば以前この部屋に泊まったときも、くつろいだ様子の彼を興味深く見ていたような気がする。いつもより撥ねた髪の毛とか、まだ頭はぼんやりとしている様子だとか。口は大きいくせにもそもそとパンをかじっているところ。コーヒーを飲んだらほうと気の抜けた顔なんかして。
……あまりにも気を抜きすぎじゃないだろうか、とゼクシオンは相手をじっと観察した。自分に対してそんなに気を許しているのだろうか。ほら、目の前で欠伸までして。
欠伸の直後に不意に目が合い、マールーシャはばつが悪そうに笑って見せた。優しい顔をしていた。
穏やかな時間だ、とゼクシオンは思う。刺激的な関係でいたいと思っていたのに、こんな何でもない時間が心地いいなんて。
(そうか、これが――)
はっとした。
身体を繋げて得られる快楽だけが全てじゃない。マールーシャと過ごすそれ以外の時間もいつしか居心地のいいものとなっていた。相手のことをもっと知りたいし、近くで見ていたい。この気持ちを、いつかマールーシャが言った言葉と重ねた。傍にいたいのだとわかった。さりげない仕草も、小さな癖も、彼を構成するあらゆるものを知りたい。触れてみたい。傍にいたい。これから先も。――これが、答えだった。
ゼクシオンもマールーシャに微笑み返した。これまでで一番素直な気持ちで彼と向き合えている気がした。
マールーシャもにこにこして少し身を乗り出した。
「なんだか機嫌がよさそうだな」
「ええ、まあ」
ゼクシオンはそう言うと、一拍置いて思っていたことを口にする。
「――僕、貴方のこと好きだなと思って」
ごく自然に言葉にできた。口にしたら、さらに腑に落ちた。
相手を望む気持ちは肉欲の中にある渇望と似ているようで、けれど渇き切ったそれと違うのは、同時に自分が満たされるような不思議な感覚があることだった。気持ちを言葉にした瞬間、あたたかい気持ちにすらなれた。
なるほど、これが好きという気持ちなのか。『恋なんて手に負えない厄介なもの』……だけではないのかもしれない。こんな気持ちになれるのなら。
ゼクシオンが冷静に自己分析をしている一方で、マールーシャは穏やかな表情から一変して目を丸くしてゼクシオンを見つめていた。面白い顔をしているな、とゼクシオンも相手を観察して愉快な気持ちになった。またひとつ、新しい表情を知れた。そうやって新たに知る相手の一面に喜びがあることも、今では快く思えた。……ひょっとして、これが最初から彼が求めていたものだったのだろうか。
「……なんて顔してるんですか、驚きすぎですよ」
「いや、だって」
しどろもどろになってマールーシャは俯いた。見ると、桃色の髪の毛の間から覗く耳の先がそれ以上に赤く色づいている。
「……いつか、本音で言ってくれたらとずっと思っていた」
染み入るようにマールーシャがそう言うのを聞いて、ゼクシオンはだいぶ胸が痛んだ。これまでなにかにつけて彼に告げてきた言葉が上辺だけのものだったことは、当然のように見透かされていたわけである。弁明するのもはばかられ何も言えなかったけれど、せめてこれからは言葉にして伝えようと心に誓った。彼が何度でもそうしてくれたように。
「……もう一回言ってくれないか、今」
「え……い、いやです」
……そうは言っても面と向かってねだられるといきなり素直になるのは無理だった。
調子を取り戻したマールーシャが楽し気に身を乗り出してくるので、今更恥ずかしくなってゼクシオンは隠れるようにしてカップに口を付けた。
素肌を晒すことなどより、心の中の本音を伝えることの方がよっぽど恥ずかしいものなのだということも、この時知った。
20240729
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